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【話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)(11) 運命を変えた電話、決死の日本渡航

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新聞記者時代
新聞記者時代

 《米国の大学教授との旅を通して、自由への思いが一層強まっていた1986年の冬。1本の電話が勤務先の新聞社にかかってきた》

 活字を組む工場で新聞のゲラをチェックしていたら横にあった電話がリーンとなりました。たどたどしい中国語で、「自分は残留孤児2世だ」と名乗る男性からでした。「残留孤児だった母と一緒に日本に渡ったが、今ハルビンに来ている。日本と中国の間でビジネスをしたいけれど、中国語に自信がないので日本語のできる人を探している」と言うのです。

 独学でしたが、日本語を少し勉強していたので私がお手伝いすることにしました。日本とのつながりが何かできればという思いももちろんありました。

 残留孤児2世の男性は日本ではオートバイばかり乗りまわしていたと言っていて、額に大きなけがの痕がありました。日本社会にうまくなじめず、苦労したようです。それだけに中国との縁を生かして逆転を図りたいという思いがあったのでしょう。記者が一緒なら地元政府の役人ら関係者と容易に会うことができる。その後、彼の上司にあたる人も来て、ホテル建設の候補地など黒竜江省内の視察に同行することもありました。私にもずいぶん自由な時間があったものですね(笑)。

 するとその上司から、日本への招待状が届きました。短期視察ビザの保証人になってくれると言うのです。外国からの招待は当時、だれもが驚く“事件”です。党機関紙の記者が出国するには、直属の監督機関である省宣伝部の許可が必要です。招待状を「検討」した結果、新聞社では公務出張と判断したらしく「省の許可が必要だ」と言うので、省委員会の庁舎を訪ねていきました。公務出張ですと国が背広などを新調してくれた時代です。

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