弔電は百通を超え、駅前広場で催された葬儀には「当時の木浦の人口約10万人のうち、3万人もの市民が参列したそうです」(鄭園長)。
千鶴子さんが死の直前につぶやいた言葉がある。
病床で長男の尹基氏に日本語でこう言ったそうだ。
「梅干しが食べたい…」
韓国人の妻として、韓国語で話をしながら、韓国の料理を食べ、韓国の子供たちを育てた千鶴子さん。最期の想いは胸の中にしまい込んでいた望郷の念だった。
この言葉は、基氏のその後の人生に大きな影響を与えることになる。
千鶴子さんが結婚前を含む32年間で育てた子供の数は2995人。「日本人が韓国で行った最大の善行だろう」(町田氏)とも評されている。
韓国政府は、千鶴子さんが亡くなる5年前の63(昭和38)年、日本との国交正常化前にもかかわらず、日本人の千鶴子さんに文化勲章を贈り、その功績に報いた。在韓外国人女性への授与は初めてのことだった。
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李蘭影の墓はもともと、ソウル北方、坡州(パジュ)市の芸術家関係の墓園にあった。鄭泰官氏ら市民団体の活動で、没後41年の2006(平成18)年に遺灰が故郷・木浦に移され、サルスベリの木の下に埋められた。
場所は、「木浦の涙」の歌詞にも出てくる三鶴島(サムハクト)。今では、埋め立てられて陸続きだ。一帯は「木浦の娘 歌手李蘭影公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。
李蘭影の歌手としての活動期間は32年で、くしくも田内千鶴子さんと同じ歳月である。その間に222の歌を世に送り出した。
鄭泰官氏は語る。
「解放前の韓国の知識人はほとんど、親日派と呼ばれた。李蘭影だけでなく、彼女の兄弟もそう非難された。ただ、彼女の歌で木浦が広く知られるようになり、国民の心が癒やされたのも事実だ。親日的な歌を歌ったということは認めた上で、そこに立ち止まらずに、未来のコンテンツとして李蘭影や木浦の涙を生かすべきだ」
鄭泰官氏たちは「『木浦の涙』から希望を」というスローガンを掲げ、討論会やコンサートなど、生誕百周年の記念事業を行っている。
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李蘭影公園の高台からは、市内の「金大中(キム・デジュン)ノーベル平和賞記念館」が見えた。
日本統治時代のアレルギーなどから、韓国内で禁止されてきた「日本文化」の開放政策を推進したのが、木浦近くの離島で生まれ、木浦を地盤とした元大統領の金大中氏(1924~2009年)だった。
金大中氏は大統領時代の1998(平成10)年、当時の小渕恵三首相と「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に署名した。
それによると、小渕首相は「わが国が過去の一時期、韓国国民に対し植民地支配により多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのおわび」を表明した。
金大中氏はこれを評価し、「両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて、和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるため、互いに努力することが時代の要請だ」と述べている。



