木浦(モッポ)は雨が似合う…。そう感じるのは、名曲「木浦の涙」のせいだろうか。リリースから80有余年。日本統治時代に生まれた歌が今なお市民の心をとらえて放さない。朝鮮半島南西端の木浦は、孤児たちから「オモニ(母)」と愛された日本人女性がいたことでも知られている。そんな木浦に突如出現した慰安婦像-。日本をめぐって揺れる港町を訪ねた。
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人口約24万人という木浦市の街並みと海を見下ろす儒達(ユダル)山。標高228メートルのこの岩山が「木浦の涙」の舞台の1つだ。
登山道の入り口で仁王立ちしていたのは、16世紀末の文禄・慶長の役で豊臣秀吉側の水軍を苦しめた朝鮮の名将、李舜臣(イ・スンシン)の像である。当時、岩山の一部を偽装して、兵糧が山のごとく積み上げられているように見せかけ、海上から押し寄せる秀吉軍の攻撃を防いだという伝説が残っている。
小雨が降りしきる中、あずまやを目指して登っていくと、演歌調の音楽が途切れ途切れに聞こえてきた。「木浦の涙」だった。
新妻が埠頭(ふとう)に立ち、川面を見つめ、儒達山からの風に吹かれながら、愛しの人をしのんで涙を流す-というのが韓国語の歌詞の内容だ。
1935(昭和10)年に発売されるや朝鮮で大ヒットし、木浦の名前を一躍有名にした。歌ったのが、16(大正5)年に木浦の貧しい家に生まれた朝鮮人歌手で、当時19歳の李蘭影=イ・ナニョン(本名・李玉禮=イ・オクレ)。彼女もまたこの歌で人気歌手の仲間入りを果たした。
山道を登っていくと、音楽が流れているところに、「木浦の涙」の歌碑があった。
作詞したのは木浦出身の無名の詩人で、朝鮮日報が「郷土の歌」を公募して寄せられた約3000点の中から選ばれた。その歌詞に、後に「韓国の古賀政男」と呼ばれる作曲家の孫牧人(ソン・モギン)氏が曲を付けた。
歌碑には、歌詞の変遷に関する説明もあった。それによると、レコード発売時にはすでに、もともとの歌詞が一部変えられていたという。35年は日本統治時代。特に2番の「~三百年の恨み抱いた~」のくだりが当局から問題視された。三百年というのは文禄・慶長の役を暗示しているとされたようで、結局、韓国語の発音はほぼ同じだが、「~サムベク淵の願安の風は~」と意味不明の歌詞に変わったという。
李蘭影生誕百周年に当たる今年、さまざまな記念イベントを主催する「木浦の涙・記念事業会」では、日本統治時代の「厳しい監視と弾圧の中で歌われてきた民族の歌」だとし、民衆は「国を失った悲しみをこの歌で癒やした」という見方を示している。
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