「木浦の涙」の大ヒットから2年後、作曲家兼歌手の金海松(キム・ヘソン)氏と結婚した李蘭影は、1942(昭和17)年に名曲「木浦は港だ」を発売。戦後、哀調を帯びた歌声はフランスのシャンソン歌手、ピアフにもたとえられ、李蘭影は「エレジーの女王」と称された。
「80年以上歌い継がれている歌謡曲はそれほど多くない。『木浦の涙』は恋人の別離を歌った悲しい歌なのに、悲しみを癒やす不思議な力をもっている」
こう話すのは、木浦に住む画家の鄭泰官(チョン・テグァン)氏(57)だ。「木浦の涙・記念事業会」の執行委員長を務めている。
鄭氏によると、「木浦の涙」は、木浦北方の光州(クァンジュ)を本拠地としていた韓国プロ野球球団、ヘテタイガース(現・起亜タイガース)の応援歌にもなった。80(昭和55)年に韓国の民主化運動の過程で発生し、多数の死傷者を出した光州事件の現場でも市民や学生たちが歌っていたという。
しかし-。
「木浦で記念歌謡祭を企画した際、『親日派(チニルパ)なのにそんな必要があるのか』という批判が市民から出たのです」と鄭氏は明かす。
親日派とは、日本統治時代に日本に協力した人などを指し、売国奴と同じ意味合いで使われることが多い。李蘭影は戦前、日本人の芸名で日本語のレコードも発売していた。
「木浦の涙」の国民的歌手でさえ、しかも、故郷の木浦において「親日派」と批判されているとは意外だった。
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ちょうど、李蘭影が日本語のレコードを出して活躍していた1938(昭和13)年10月、儒達山のふもとで、韓国人男性と日本人女性の結婚式が行われた。
夫は当時29歳の尹致浩(ユン・チホ)氏、妻が25歳の田内千鶴子さんだった。
千鶴子さんは高知県出身で、父親の仕事で木浦に移住し音楽の教師をしていた。その際、孤児施設「共生園」を運営していたキリスト教の伝道師、致浩氏と出会い、結ばれた。
結婚の2年後に長女(尹清美=ユン・チョンミ=さん)、またその2年後に長男(尹基=ユン・ギ=氏)が生まれ、子供たちをあやしながら、約70人の孤児たちの世話に明け暮れる毎日だった。
そして迎えた日本の敗戦。日本人女性を妻にもった夫は、住民たちから「親日派」と攻撃された。千鶴子さんの身にも危険が迫った。
長男の基氏(73)はこう述懐する。
「母を助けたのは共生園の孤児たちでした。『たとえ日本人でも、私たちのオモニです』と体を張って守ってくれたそうです」
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千鶴子さんは李蘭影の4つ年上である。民族も生活環境も異なる2人だが、共通点があった。
夫を朝鮮戦争の際に失ったことだ。
李蘭影の夫、金海松氏は戦争が勃発した1950(昭和25)年に行方不明となった。ソウルが陥落した際、北朝鮮軍に連行されたとみられている。



