尹致浩氏も51(昭和26)年、共生園の食料を援助してもらうため、光州の全羅南道庁に出かけたまま行方が分からなくなってしまった。
李蘭影はその後、子供たちが暮らす米国に渡り、音楽活動に従事した時期もあった。しかし「木浦の涙」を上回るヒット曲に恵まれず、65(昭和40)年、不遇のうちにソウルで亡くなった。48歳の若さだった。アルコール浸りの晩年だったとも伝えられる。葬儀は韓国演芸協会葬で執り行われた。
一方の田内千鶴子さんは夫がいつ帰ってきてもいいように、共生園の運営に文字通り粉骨砕身した。朝鮮戦争直後の50年代が孤児ら500人以上を抱え、最も苦しい時期だったようだ。
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共生園は今も変わらず、儒達山のふもとにある。2001(平成13)年から木浦共生園園長を務める鄭愛羅(チョン・エラ)さん(54)に、大食堂として以前使われていた事務棟で会った。
1970年代、300人を超える子供たちが一度に食事ができるようにと、日本の福祉団体の支援で建てられたのだという。
鄭園長は尹清美さんの娘で、千鶴子さんの孫に当たる。孤児たちと遊びながら園内で育った。
「祖母は自分の孫たちのしつけに厳しかったですよ。その半面、親のいない子供たちには本当にやさしく接していましたね」
孤児の1人も千鶴子さんをこう振り返っている。
「寒い冬には、凍えた小さい手に息を吹きかけながら、『ちゃんと勉強するんだよ』と、まだつたない韓国語で話してくれました」
子供が病気などで亡くなると、「その小さな体を抱いて寝てあげたそうです」(鄭園長)。
日本の元外交官で釜山総領事などを務めた町田貢氏(81)=ソウル在住=も、65年の日韓国交正常化後、千鶴子さんに会ったときのことを印象深く覚えていた。
「とにかく疲れていらっしゃいましたね。支援先を探すことも大切だが、やることはそれだけではなかった。孤児たちは学校を卒業すると、共生園から出ていかなければならない。それが決まりです。『みんなが就職できるわけではないのに、共生園から送り出さないといけない。それが最も辛い』とおっしゃっていました」
鄭園長が6歳のとき、千鶴子さんは100人余りの孤児たちに見守られながら息を引き取った。疲労が原因とされる。56歳だった。
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『オモニ、幼い私たちを残してどこに行かれるのですか-。孤児たちの張り裂けるような声に、港町・木浦が泣いた』
1968(昭和43)年11月2日、千鶴子さんの葬儀が木浦市初の市民葬として執り行われた。翌日の朝鮮日報は大きく取り上げ、こう報じた。



