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【話の肖像画】龍谷大学教授・李相哲(61)(15)日本に帰化、「北」の3代世襲に憤怒

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記念撮影に臨む金日成氏(中央)と正日氏(左)、敬姫氏(ギョンヒ、正日氏の妹)の親子=1963年ごろ(朝鮮通信=共同)
記念撮影に臨む金日成氏(中央)と正日氏(左)、敬姫氏(ギョンヒ、正日氏の妹)の親子=1963年ごろ(朝鮮通信=共同)

 《1998年、龍谷大学に助教授として迎えられたのを機に、日本への帰化を申請した》

 そもそも中国の朝鮮族の村に生まれたというだけで、中国籍を自分の意思で選んだわけでもないし、法律的には韓国人でもない。迷いはなく、帰化は願ってもないことでした。外国人はビザ更新のとき、一番緊張します。ビザが出なかったら、それまで日本で築いたすべてを放棄して帰国しなければならない。中国へ戻るつもりは全くありませんでした。

 帰化申請が通った知らせを受けて、真っ先に旅券を申請しました。次女も生まれていましたので一家4人分です。1週間ほどで旅券が出ました。本当にうれしかった。これで胸に重くのしかかっていた不安が初めてストーンと落ちたような気がしました。

 《龍谷大でアジアの文化、メディア史を中心に教壇に立つ。教授になって5年がたった2010年、1本のニュースが心をとらえた。金正日(キム・ジョンイル)の後継に三男の金正恩(ジョンウン)が確定したという報道だった》

 私は金正日が政権を去れば北朝鮮は変わると思っていました。毛沢東の死後、中国が変わったように。ところが、3代世襲を決めたことに憤怒を覚えました。金正日が亡くなっても北朝鮮が「まともな国」になることはないと思いました。当時はまだ北朝鮮を研究していたわけではないのですが、金正恩が権力を受け継いだらどうなるかが知りたかった。そこで書いたのが「金正日と金正恩の正体」(文春新書)です。

 《この一冊がきっかけで、テレビ局などから朝鮮半島情勢の解説依頼が相次ぐようになる》

 実は北朝鮮研究につながる縁は、すでに大学院時代にありました。15歳のときに故郷・中国で初めて一緒に写真を撮った友人から1993年に手紙をもらい、「回顧録を執筆している北朝鮮の元高官がいるので会いに来てほしい」と依頼されました。友人は中国山西省の空軍基地で人民解放軍将校として勤務していました。夏休みに山西省の空港に着くとハイヤーが止まっていました。元高官が用意したものでした。

 元高官は「朝鮮人民軍報」編集長や文化相を歴任した金剛(キム・ガン)という人物でした。56年8月、金日成(イルソン)が長期の東欧歴訪に出かけていたとき、金剛ら親中の延安派幹部はソ連派と手を組んで金日成の独裁体制打倒を掲げ、政変を起こそうとしましたが失敗しました。

 8月30日開催の党中央委員会全体会議で金日成が外国訪問の結果について報告することになりましたが、途中、尹公欽(ユン・ゴムフム)商業相が立ち上がり、金日成批判を展開しました。実は金日成は密告を受け、すでに延安派の動きを把握していました。尹は「個人崇拝をやめ、重工業優先主義もやめるべきだ」と熱弁を振るうのですが、金日成派に制止されます。徐輝(ソ・フィ)政治局員が尹に続きました。会議は終わらず、危険を感じた尹と徐、同じく延安派だった内務相の李弼奎(リ・ピルギュ)は金剛に連絡、その日の夜、4人は平壌を脱出します。

 金剛だけは拳銃を携帯、自身が運転するジープに3人を乗せ、一路中朝国境を目指しました。4人は翌朝未明、中国丹東市対岸の鴨緑江の岸辺にたどり着きますが、そこには小さな舟が用意されていました。平壌に駐在する中国政府の関係者が用意したものだ、と金剛から聞いて驚きました。(聞き手 長戸雅子)

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