なら国際映画祭の一環として7月22~24日、尾花座復活上映会が奈良市のホテル尾花「桜の間」で開かれた。奈良出身の尾野真千子が主演した『茜色に焼かれる』(石井裕也監督、2021年)は24日夜の最終上映だった。終了後、尾野がオンラインで登場すると満席の観客40人は拍手で迎え、尾野に「あの場面でムカつきました」などの感想や質問を浴びせた。
同ホテル社長の中野聖子(さとこ、1968年生まれ)は「映画を見た直後だったので現実と虚構の区別のない質問が出て面白かった」と表情を崩し、尾野の参加は「映画祭スタッフが熱烈な手紙を書いてお願いし、前日に決まった」と打ち明けた。同ホテル会長で父の重宏(1928年生まれ)も客席で映画を楽しんだ。期間中、延べ252人が参加した。
映画のモデル
同ホテルの前身は映画館、尾花劇場である。映画産業が斜陽になり1979年に廃業。社長だった重宏は同一敷地にホテルサンルート奈良を建てた。家業を継いだ長女、聖子は2020年6月、ホテル尾花に改名した。中野家が1920(大正9)年に芝居小屋の尾花座を買い取ってから100年の節目だった。
上映会は2012年に開始。映画祭に合わせた隔年開催から毎年に切り替えた20年は、成田凌が活動弁士を演じた『カツベン!』(周防正行監督、19年)を上映した。尾花劇場がモデルになったからだ。幼少時に無声映画を見た重宏は「弁士がスクリーン横に立って熱弁を振るう姿をよく覚えている」と懐かしんだ。
16年に発行された重宏の半生記が、同作品と尾花劇場の縁を紡いだ。18年春、男性が同書を買いにホテルを訪れた。聖子が応対すると映画会社、アルタミラピクチャーズのプロデューサーと名乗り、「活動弁士の映画を製作したい」と述べたので、芝居小屋時代の内観写真を提供した。
完成後、親子で試写会に出向くと、エンドロールに協力者として重宏と聖子の名が示された。「うちの内観写真と映画のセットはとても似ていた。参考にしていただいたと分かった瞬間、本当に感激した」と聖子は回想した。
「芝居小屋」のように
聖子が家業を継ぐ決心をした理由の1つに『学校』(山田洋次監督、1993年)の奈良ロケがある。夜間中学生が修学旅行に訪れる場面を撮影するため、田中邦衛、西田敏行、竹下景子らのスターが宿泊した。
当時、損害保険会社に勤めていた聖子は「ホテルに届いた修学旅行生の大量の荷物を、山田監督は熱心に観察していらした。映画づくりの参考にされると気づいた。ホテルでは、こんなすてきな人たちをお世話できるのだ」とやりがいを感じた。
聖子は今年8月23日、ホテル尾花に奈良出身の落語家、桂文鹿を招き、奈良ゆかりの古典落語「鹿政談」を披露してもらった。「映画祭とは別に落語会も続けたい。かつての芝居小屋のようにホテルを使うことで奈良の活性化に貢献できれば」と聖子は将来を見据えた。
フィルムコミッションの大切さ
先に紹介した映画『学校』の撮影では、21年に亡くなった田中邦衛が奈良の古寺巡りをしていたことも思い出に残る。さらに、フィルムコミッション(映像作品のロケ撮影が円滑に行えるように支援する団体)の重要性を教えてくれた映画でもあった。
聖子の回想によると、監督の山田が撮影前に奈良を訪れた際、父、重宏を含めた映画館関係者が近鉄奈良駅前の喫茶店に集まり、撮影が可能な寺院を検討したという。憧れの監督に会えるために父に連れられて同席した聖子は「山田監督から、ある著名寺院で撮影したいとの希望が寄せられた。そこで父がその寺院に出向き、くどいたが、断られてしまった。結局、別の寺院で撮影した」と証言した。そして「父を含めた『奈良のおじさんたち』がフィルムコミッションの役割を果たしていた実態を垣間見た」と語った。
NPO法人なら国際映画祭は、県内で映画を撮影する事業「ナラティブ」で、地元自治体と協力してロケ地探し、出演者や撮影スタッフの宿泊先、食事の手配など、フィルムコミッション機能を積極的に担ってきた。背景には、『学校』の撮影時に映画関係者が苦心した経緯をじかに見た体験もあったようだ。
聖子は「奈良県、奈良市ともフィルムコミッションを持っていない。他の地域がロケの誘致を競い合っているなか、奈良でも同コミッションの設立が急がれる」と指摘した。
映画と中野家の1世紀
明治期の中野家は大阪・戎橋筋で旅館を営んでいたが、大正期に映画館経営に乗り出した。最盛期には各地に20館を有し、千日前の芦辺劇場も含まれた。1920(大正9)年に購入した尾花劇場は、重宏の祖父、平兵衛(二代目)が経営。重宏の父、正夫が教師を経て奈良市議(のち議長)に当選したので、重宏は大阪大学の学生時代から自然と映画館経営を委ねられた。
長く松竹系の邦画を上映してきた。田中絹代と上原謙が主演した『愛染かつら』(野村浩将監督、1938年)は思い出に残る映画である。終戦翌年の46年1月に尾花劇場でリバイバル上映した際、娯楽を求めた観客の列は長さ400メートルに達したという。
重宏は「館内は押し合いへし合いの状態。入り口のガラスが割れた。立ち見客の方が座っている客より多かった」と述べ、当時の光景を鮮明に覚えている。さらに「戦争中は戦意高揚の映画ばかりつくられていたので、メロドラマがなく、人々は恋愛映画に飢えていた」と解説した。
旧制奈良中学から旧制第六高校(岡山市)に進学した重宏は、空襲で六高の校舎や寮が焼けてしまったことなどから奈良の実家に帰っていたので劇場を手伝い、堺市の映画館までフィルムを受け取りに出向いた。途中、電車の通っていない区間もあり、バラック小屋の並ぶ深夜の天王寺公園(大阪市)を、10キロのフィルム缶を持って歩いた。観客が上映を待ち望んでいて「命に代えられないもの」と思った。使命感からだった。
だからこそ聖子は、2012年に当時のホテルサンルート奈良で尾花座復活上映会を始めるにあたり、『愛染かつら』を上映作品の1つに選んだ。反響は大きく、50席に90人が来場した。「終戦翌年に尾花劇場で『愛染かつら』をごらんいただいた高齢の女性たちが多かった。席が足りず、床に毛布を敷き詰めて座っていただいた」と言う。映画を愛する人々の気持ちに触れ、手応えを感じた。
邦画が斜陽になると、尾花劇場では歌手を呼んで実演と映画上映を交互に行う「抱き合わせ興行」を行った。
最初に招いた歌手・島倉千代子の「ヒットショウ」は、1日4000人の大入りだった。名曲「東京だよ、おっかさん」は聴衆の涙を誘った。「感心したのは島倉さんが公演と公演の間に奈良少年刑務所(現在は廃庁)を訪れ、激励と慰問を行ったこと。偉い人だと強く印象に残っている」と重宏は思い出を語った。
映画館の廃業は聖子が11歳のとき。5歳までは親子4人で尾花劇場の2階に暮らしていたので、映画館は遊び場だった。映写室をのぞくと、「かなやん」「たけやん」という技師2人が働いており、「入ると怒られた」。入場券(テケツ)をもぎる入り口、あんパンの売店などに座っていた。
尾花劇場は1966年に洋画専門に切り替えた。最後の上映は79年11月4日。『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督、71年)だった。重宏によると「有志が募金箱を置いてくれた。このとき集まった浄財と自らの資金を合わせて、尾花座を顕彰する石碑を建てることができた」。
石碑はホテル前に設置された。「われらが尾花座 ここにありき」の文字は、落語家、桂米朝の揮毫(きごう)である。「米朝師匠は『これぐらいの規模の小屋で落語をやってみたい』と話されていた」と述懐した。
中野家に伝わる資料によると、芝居小屋時代の尾花座には回り舞台や櫓が設けられ、歌舞伎、浄瑠璃、新派演劇、浪曲、落語が上演されていた。劇場前を派手に飾り付けした正月興行には、近くの花街から黒紋付の芸妓(げいこ)衆が大勢やってきた。重宏は「鬢(びん)付けの匂いが『ええなあ』と思った」と懐かしんだ。
人々の気持ちつなぐ
重宏は「映画館が落ち目になって悪戦苦闘した。斜陽化に立ち向かうことはしんどかった。『映画館をつぶした男』の娘が映画に関わるなんて何ちゅうことや、どんな遺伝子があるのやろか、と不思議に思う」と苦笑しながら心境を打ち明けた。そして「コロナ禍のなかでホテルの経営は苦しいが、映画や落語で人々の気持ちをつなぎたい」と述べた。
聖子は、なら国際映画祭の発足時からNPO法人の理事長や理事を務めた。今は相談役として運営をバックアップする立場だ。「映画祭は大規模になり、奈良市民だけでの運営が難しく、東京などの専門家に依頼する仕事が増えてきた。対して、尾花座復活上映会はこれからも手づくり感を残していこうと考えている」と意気込みを語った。=敬称略(文化と地域デザイン研究所代表 松本茂章、写真も)
◇
まつもと・しげあき 専門は文化政策、文化を生かした地域デザイン。日本アートマネジメント学会会長。全国紙記者、デスク、地方支局長を経て、県立高知女子大学教授、静岡文化芸術大学教授を歴任。22年5月から大阪市此花区で研究スペース「本のある工場」を主宰。主著に『文化で地域をデザインする 地域の課題と文化をつなぐ現場から』『ヘリテージマネジメント 地域を変える文化遺産の活かし方』(いずれも学芸出版社)など。




