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⑧老舗経営者とアフリカ人監督の共感

老舗の家に生まれ育って

柳澤の実家(松岡家)の先祖、包永らの刀づくり集団は中世のころ、東大寺・転害門(てがいもん)の西側あたりに住んでいた。1876(明治9)年の廃刀令で小刀販売に転じ、戦後は包丁を商うようになった。

柳澤自身は11歳のとき2歳上の兄が病気で亡くなり、1人娘に。周囲からは「(家のために)育代ちゃんは養子を(迎えればいい)」と言われ続けた。「海外に行きたかった」。高2でカナダに、大学3年でニューヨークに留学。奈良市出身の貿易商社マンの息子と知り合い、1993年に結婚した。「主人の実家は東大寺近くで土産物店を経営している。実家が1キロしか離れていない2人がニューヨークで出会った」と振り返る。

1997年、ニューヨークで日本の包丁を販売する現地法人を立ち上げた。「私はチャレンジャー」と言う柳澤は、堺の包丁鍛冶職人を連れて全米の都市を巡る実演ツアーを行ったりして販路拡大に力を入れた。こうした実績から、半世紀にわたり「菊一」の社長を務めた父、松岡泰夫(1939年生まれ)の後継者に選出された。父もバカレのインタビューに応じて今回の映像『She is Able』に登場している。

若草山の麓にある「菊一」で柳澤に話を聞いたあと、筆者は東大寺の境内を抜けて近鉄奈良駅まで歩いて帰った。転害門の西側に差し掛かると「東包永町」「西包永町」の住居表示看板を見つけた。今も「包永」の名が地名に残されている。刀から包丁へ…。中世から現代へ…。一族は時代を超えて長い「航海」(ボヤージュ)を続けてきた訳である。

奈良市田原地区とのご縁

話を「グラン・ボヤージュ」に戻そう。実は13年にも同じ名称の事業が行われた。スイスのジュネーブ造形芸術大学の学生12人が奈良市の近郊農村・田原地区を訪れ、撮影ワークショップに取り組んだのだ。なら国際映画祭の一環として行われ、地元の任意団体「田原フィルムコミッション」(中尾義永代表)が運営を受託した。

学生たちは民家にホームステイして田原地区内を歩き、撮影して作品を仕上げた。同地区でギャラリーと料理教室を営む安達泉(1954年生まれ)は、ジュネーブの学生のために、有償で毎日の食事をつくり提供した。

ギャラリーは編集作業のラボ(工房)に使われた。「作品を仕上げるために緊張状態だった学生さんも、食事のときには気持ちを緩める。笑顔になる。交代で後片付けをしてくれた。とてもハートフルなお付き合いができた」と安達は懐かしむ。

交流はその後も続いた。安達の話によると、男子学生のラファエル・ハラリは翌14年の夏に40日間、安達宅に滞在して卒業作品を制作し、女子学生ジュリー・サンドはその後3回、安達宅を訪れて泊った、という。

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