江ノ島電鉄は、「江ノ電」の愛称で親しまれる鉄道会社だ。1902年に開業し、神奈川県の藤沢~江ノ島~鎌倉間を結ぶ全長10キロの路線を運行している。小田急電鉄の100%子会社で、フリーきっぷの販売や宣伝面でも連携し、東京方面から多くの観光客を呼び込んできた。
江ノ電は、小型車両が民家の軒先をかすめるように走る風景や、一部区間で道路上を走行する珍しさなどで、観光客に人気を集めている。特に、鎌倉高校前駅近くの踏切は、アニメ『SLAM DUNK』のオープニングに登場したことで“聖地”となり、アジア圏を中心としたインバウンド客が多く訪れている。
こうした人気を背景に、近年は混雑が深刻化している。国土交通省によると、2023年度に最も混雑したのは、JRや小田急線と接続する藤沢と、隣駅の石上との間で、時間帯は7時28分~8時27分。輸送人員は1480人、混雑率は99%と、典型的な「朝の通勤・通学ラッシュ」の状況だった。
しかし、2024年度は状況が一変した。最も混雑する区間は、終点の鎌倉から和田塚との間へ移り、時間帯も13時55分~14時54分の昼間に変化。輸送人員は2197人、混雑率は146%に達した。昼下がりがピークとなるケースは、他の鉄道会社ではほぼみられない。観光客の集中が江ノ電の混雑構造を大きく変えたのだ。
江ノ電が増結、増発できない理由
こうした人気を背景に、江ノ電の経営は好調だ。国土交通省『鉄道統計年報』(2024年度版)によると、鉄道部門の営業収益は約33億3200万円、営業損益は約6億3580万円の黒字で、中小私鉄としては比較的安定した経営を維持している。
もっとも、1960年代には自動車社会の進展で利用客が減少し、廃止論まで浮上していた。当時の社名は「江ノ島鎌倉観光」。黒澤明監督の映画『天国と地獄』には、江ノ電が1両編成で走る場面も登場し、当時の利用状況をうかがわせる。しかし現在は4両編成での運転が基本となり、1990年には累積赤字も解消した。
こうなると、混雑解消や利益拡大のために、列車の増発といった輸送力の増強に取り組みたいところであろう。しかし、江ノ電の輸送力はすでに限界に近い。これ以上の増発や車両の増結を、したくてもできない状況にあるのだ。
最大の理由は、全線が単線であることだ。上下線の電車は、途中駅や信号場(列車交換専用の設備)ですれ違う必要がある。藤沢発の列車は、鵠沼、江ノ島、峰ヶ原信号場、稲村ヶ崎、長谷と、すれ違い可能な場所を順番に全て使いながら鎌倉へ向かう。つまり、列車を増やそうにも、新たにすれ違える場所がないため、これ以上ダイヤを入れられないのである。
こうした制約はダイヤにも表れている。江ノ電は、列車交換設備の位置に合わせて運行ダイヤを組んでいるため、平日・土休日とも、ほぼ終日14分間隔の運転となっている。朝夕ラッシュ時や観光客で混雑する昼間だけ本数を増やすことはできない。
加えて、路線の多くは市街地や海岸沿いの狭い用地を走っており、複線化の余地もほとんどない。駅ホームも限界まで延伸されているが、4両編成がぎりぎり停車できる程度だ。腰越駅では両側を踏切に挟まれているため、ホーム長が3両分しかなく、鎌倉側の1両はドアを開けずに対応している。
利益確保の手段は経費節減
こうした設備制約は、もともと地域内の小規模輸送を前提に整備された路線であることに起因する。120年以上前に、現在のような観光需要を見通すのは難しかった。1970年代以降に業績が回復すると、新型車両の導入などサービス改善が進められた。しかし、その頃には沿線の宅地化が進み、線路設備を大きく改良できる余地はほとんど残っていなかった。
設備投資をいつ、どの程度行うかを判断するうえで、将来の社会情勢を見極めることの難しさを示す事例ともいえる。現在の円安を背景としたインバウンド観光客の増加も、いつまで続くかは見通しづらい。
現在、鉄道各社では少子化や人手不足を見据え、運行に必要な人員や人件費をどう抑えるかが課題となっている。江ノ電も、設備増強が難しい中で、経費節減による収益確保を進めてきた。
代表例がIC化の推進だ。江ノ電は2007年3月、交通系ICカード「PASMO」のサービス開始と同時に導入した。それまで、首都圏私鉄で広く導入されていた磁気式プリペイドカード「パスネット」に対応しておらず、紙の切符を中心に運用していたため、磁気カードを経ずに一気にIC化へ移行した事例として当時、注目された。
狙いは、自動券売機の混雑緩和と駅業務の効率化である。観光シーズンには券売機前に長蛇の列ができていたが、ICカード利用者は切符を購入する必要がなくなり、駅係員による案内や整理の負担軽減につながった。
2023年4月に導入したクレジットカードのタッチ決済も、基本的な狙いは同じだ。交通系ICカードを持たないインバウンド客でも利用しやすくし、券売機の混雑を抑えることを目指した。首都圏の鉄道では先行的な取り組みとして注目を集めた。
こうした施策の背景には、駅構造の制約もある。江ノ電の駅には狭い用地に設けられたものが多く、大型の自動改札機を設置しにくい。一方、ICカードやタッチ決済の読み取り装置は省スペースで導入できるため、限られた空間でも効率化や人件費削減を進めやすかった。
2026年4月には新型車両「700形」が営業運転を開始した。約20年ぶりの新型車両となる700形は、省エネ性能を高めることで動力費の削減を図るほか、将来的なワンマン運転も見据え、ホームの安全確認用カメラも搭載する。
一方、観光客の増加による混雑は深刻さを増している。ゴールデンウィークには鎌倉駅で入場制限が行われ、駅前に人があふれる状態も発生した。鎌倉市は沿線住民向けに優先通行用の証明書を発行するなど、生活交通を守るための対策も進めている。
線路や駅の抜本的な拡張が難しい中、江ノ電は地元自治体と連携しながら観光輸送に対応するとともに、省人化や省エネ化による経費節減で利益確保を図っている。
江ノ電の事例から見えてくるのは、インフラや設備は一度整備すると、後から抜本的に変えにくいという現実だ。人口増加や観光需要の拡大など、将来の環境変化を正確に予測するのは難しい。しかし、需要が急増した後に対応しようとしても、土地やコスト、周辺環境などの制約によって、柔軟な拡張ができなくなるケースは少なくない。
一方で江ノ電は、ICカードやタッチ決済の導入、省エネ車両への更新など、限られた条件下で業務効率化とコスト削減を積み重ねてきた。構造的な制約を前提に、「増やせないなら効率を高める」という発想へ転換している点は特徴的だ。
こうした姿勢は、鉄道業界に限らず、人手不足や設備制約に直面する多くの業界にも通じる。将来予測が難しい時代だからこそ、需要拡大への対応力だけでなく、環境変化に合わせて柔軟に運営コストを抑えられる体制をどう築くかが、長期的な競争力を左右するといえそうだ。
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著者紹介:土屋武之(つちや・たけゆき)
1965年、大阪府豊中市生まれ。鉄道ライター。鉄道系WEB雑誌『T’s Express』編集長。幼少時より鉄道に興味を抱く。大阪大学では演劇学を専攻し劇作家・評論家の山崎正和氏に師事。芸術や評論を学ぶ。出版社勤務を経て1997年にフリーライターとして独立。2004年頃から鉄道を専門とするようになり、社会派鉄道雑誌『鉄道ジャーナル』のメイン記事を毎号担当するなど、社会の公器としての鉄道を幅広く見つめ続けている。主な著書は『鉄路の行間』(幻戯書房)、『新きっぷのルール ハンドブック』(実業之日本社)など。
(ITmediaビジネスオンライン)










