修復箇所が多く昭和34年から現在にいたるまで60年以上にわたって石垣修理が続く鳥取城跡(鳥取市)で、異彩を放っているのが国内唯一の球面石垣「巻石垣(まきいしがき)」だ。甲羅状のユニークな形状で城郭ファンの人気が高いこの石垣は、河川護岸などに使われている石積み技術を応用した補強石垣とされる。なぜこの技術が城郭に応用されたかは分かっていなかったが近年、鳥取県三朝(みささ)町の寺で鳥取城と同時期とみられる巻石垣が確認され、その関連が注目されている。
天守台の石垣にも使用
「巻石垣→(コチラ)」。広大な城跡のあちらこちらに立てられた案内板が人気をうかがわせる。
「テレビで見て、こんなのあるんだと興味をひかれた。実物は周りの石垣より小ぶりの石で造られており、とてもきれい。レンガ積みみたいな感じだ」
鳥取県倉吉市の会社員の男性(52)は、興奮気味にこう話した。独創的なデザインや形状を「現代アート」にたとえる声も聞く。
巻石垣は江戸時代後期の文化4(1807)年ごろ、「天球(てんきゅう)丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)の石垣が崩れ出し、その崩落防止のために築かれたとされる。久松山(きゅうしょうざん)(263メートル)に築かれた山城の鳥取城の麓部分にあたる山下(さんげ)ノ丸の最奥部に位置し、規模は横幅約12メートル、高さは約5・5メートル。鳥取城跡の石垣は昭和18年の鳥取大地震で大きな損傷を受けており、巻石垣は経年劣化も加わって長らく崩落したままの状態だったが、平成23年によみがえった。
実は、鳥取城跡ではこのほか、久松山の頂上(山上(さんじょう)ノ丸)にあった天守台の石垣に設けられた高さ約7・5メートルの大型のものをはじめ計4基の巻石垣があったとされ、一部は現存している。鳥取市教委文化財課によると、造成時期は天球丸の巻石垣と同時期とみられ、「城郭における他の事例は皆無」という極めて珍しい石垣群だ。
三朝の寺にもあった!
天球丸の巻石垣は、石垣後部の土砂がせり出して崩れた部分に、亀の甲羅状に斜めに石積みした構造。石の大きさは約50センチ四方で、通常の石垣よりやや小ぶりのものが使われている。石を円弧上に積んだ構造物は全国的に防波堤に用いられ、岡山を中心とした瀬戸内沿岸や九州では、強い水流の制御を目的に河川護岸などにも導入されている。
なぜ、その技術が石垣に使われたのか。石垣に詳しい同課の文化財専門員、細田隆博さんは今年、論文「鳥取城に用いられた補強石垣『巻石垣』について」を発表し、その謎に迫っている。その中では、5年前に存在が明らかになった三朝町にある曹洞宗の古刹(こさつ)「曹源寺」の巻石垣を紹介し、鳥取城との関連に言及している。
曹源寺の巻石垣は山門につながる階段脇にあり、大きさは天球丸の半分ほど。細田さんは「寺は文化6年の火災で焼失して再建されており、石垣もその時期に補修されたのではないか。とすれば、天球丸の巻石垣造成時期と極めて近い。同じ職人集団によって手掛けられた可能性がある」と指摘する。
また、岡山藩に隣接する地理的な近さに加え、鳥取・岡山両藩がともに戦国武将の池田恒興をルーツとする池田氏が治めていたことから、巻石垣の技術が岡山から伝播(でんぱ)したのではと推測する。
巻石垣は低コストが魅力
「石垣を補修する場合、通常は解体して組み直す。実際、鳥取城でも、巻石垣と同時期に行われた大手(正面)に面した崩落石垣の補修は、解体修理で行われた。巻石垣で補修された石垣に共通するのはいずれも大手に面していないことだ」
こう指摘する細田さんは、その理由について「解体しないので低コストで済む。厳しい財政事情の中、大手とそれ以外で工法を分けたのだろう」とみる。
また、同課課長補佐の佐々木孝文さんは、新たな築城や戦乱に伴う土木工事がなくなり、石垣を築く専門技術の需要が薄れた江戸時代後期の時代背景を指摘。河川護岸や棚田の石垣を手掛ける職人たちの「民間の技術」が石垣にも使われるようになったのではないかと推測する。
現代でも限られた予算のなか、長年にわたって地道な修復を続けている鳥取城跡だが、戦国、江戸と、時代によって工法が異なる石垣が存在するため「石垣の博物館」とも呼ばれる貴重な遺構でもある。鳥取市はその石垣の改修とともに、巻石垣をはじめ謎が多い石垣の歴史解明を今後も進める。(松田則章)