「敵前後を遮(さえぎ)つて、御方(みかた)に陣を隔たりたり(略)先(ま)づ前なる敵を一(ひと)散らし追ひ捲(まく)つて、後ろなる敵に闘はん」
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前なる敵は直義が率いる50万騎だった。この大軍に突入する正成の心境を『太平記』はこう記す。
〈その心、ひとへに左馬頭(さまのかみ)(直義)に近づかば、組んで討たんと思ふ処にあり〉
直義は、足利勢にあって強硬派で知られていた。兄の尊氏は、後醍醐天皇に反旗を翻したことを苦にしていたが、その弱気を叱咤(しった)するのが直義だった。その直義さえ討ち取れば、尊氏が天皇との和議に応じる可能性があると、正成が考えていたことを『太平記』の記述は示唆している。
「圧倒的に不利な戦いであっても、正成公はその状況で最善の策を練り、死力を尽くして戦った。献策が通らなかった恨みなど、私的な思いにとらわれた人間の戦いぶりではなく、あくまで『公』に奉じようとする精神を戦いの中で体現された」
垣田宮司はそう話す。冷静な状況判断力の一方で、いったん戦となれば勇猛に戦い抜く姿勢を貫いた正成。その「静」と「動」の鮮やかな対比が後世、大勢の人々の琴線に触れたことも間違いない。
正成の猛攻に直義は馬を失い、家臣の馬に乗り換えて命からがら退いた。その苦戦ぶりに尊氏がこう命じたと『太平記』は記す。
「荒手(新手)を入れ替へて攻め返せかし。直義討たすな」
正成が猛将だったことも『太平記』は伝えている。



