京都の公家の日記にも京都が当日、悪天候に見舞われたことが書かれており、九州も悪天候ということも予想される。
だが、元・高麗軍の敗因ともされてきた神風については、当時の10月20日が現在の暦では11月下旬にあたるため、時期的に台風の発生は考えにくい。
このため、撤退後、海上でもたついている間に台風ほどではないにしろ、何らかの悪天候に遭った「事後の神風」だったとも考えられる。
あやつり人形
戦闘、悪天候による元・高麗軍の被害はひどかったようで、失った兵は派遣時の半数に近い約1万3500人にのぼったことが、高麗の歴史書「高麗史」に書かれている。
また、当時の高麗の様子についてもこのように書かれている。
《働き盛りの男は船の建造にとられ、兵士の多くは戦いで負傷したほか、帰国中の暴風雨で溺死したため今では国内には老人と子供だけ。しかも日照りなどが続き稲も実らず、草や葉で飢えをしのいだ》
30年間にわたる抵抗も及ばず、1259年に元の支配下に置かれると、属国としての道を歩むことになった高麗の悲哀を物語る話である。
当時の高麗王の忠烈王は高麗が元に帰属した後、人質として皇帝、フビライ・ハンの下で長年暮らし、フビライの娘を夫人に迎えるなど、モンゴル一族に変心して帰国している。
そして、フビライに日本侵略を進言したのも忠烈王だったともいわれ、王はそのときの助成も買って出たのだという。



