日本を力で服従させようと、文永11(1274)年10月、900隻、3万人余りの兵力で九州・博多に押し寄せた元・高麗連合軍は散々に暴れまわった揚げ句に、一夜にして視界から消えてしまう。タイムスリップか神隠しか。決死の覚悟で戦いに挑んだ日本の武士団もキツネにつままれたような感覚に襲われたことだろう。原因については神風、つまり天候が有力視されるが、高麗が建造したとされる船の構造にも重大な欠陥があったともいわれている。
撤退は予定通り?
ベネチアの商人、マルコ・ポーロが「黄金の国」と紹介した日本がどうしても欲しかったのだろう。2度にわたり攻め、うち最初にあたる今回の文永の役の目的は戦力を知るための偵察だとする見方がある。
とはいえ、気象や風の向き、潮の流れなどいろんな条件が合わないと航海に出ることのない当時、九州・博多で優勢に戦いを進めていた元・高麗の兵と船が翌朝にはすべて消えたのはやはり謎といえる。
そんな中で撤退の理由を考えるなら、戦いが長引くと元・高麗の兵が疲労する一方で、日本側の兵力は増強されることが予想されたことだろう。
陸上戦を得意としてきた元にとって海上戦は未知数だけに、海に停泊中に武士の夜襲を受けて大損害を被る可能性も考えていたのかもしれない。
後世に書かれた日本の歴史書には、元・高麗の船を追いかけた武士が沖合で漂流する船団を見かけたという記述があるため、夜闇にまぎれて撤退したのは間違いなさそう。



