東京裁判で唯一冷静だったインド人判事
本稿の冒頭で、インドが親日国であることに触れました。最後にその検証として、最初に挙げておきたいのは、大東亜戦争終結後の極東国際軍事裁判におけるパール・インド代表判事(ベンガル人でインドの法学者・国際法の専門家)の勇気ある冷徹で公明正大なる意見陳述です。
GHQと連合国側は、この東京裁判で、戦争の全責任を日本になすりつけ、数多のABC級被告人を全員有罪とする復讐的儀式に血眼になっていました。パール判事はそんな中、裁判官11人のうちのただ一人、裁判そのものの不当性を訴えるとともに、「全員無罪」を主張されたのでした。
「パール判決書」の要旨を抜粋すると、「戦争の勝ち負けは腕力の強弱によるもので、正義とは関係ない」「ハルノートのようなものをいきなり突きつけられたら、モナコやルクセンブルク(のような弱小国でさえ)も戦争に訴えただろう(言外に、太平洋戦争を始めたのは、日本ではなくアメリカだった、と明言した)」「日本の戦争は一方的侵略戦争ではなかった」「裁判官が戦勝国だけで構成されているのは不適切」「侵略戦争責任を個人に求めるのは妥当ではない(非戦闘員生命財産の破壊障害こそ戦争犯罪なり、原爆投下決定者こそ裁くべし)」「平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、有罪根拠自体成立しない」…。東京裁判そのものを否定し、日本および被告人を守護し、逆にアメリカを糾弾したのでした。
パール判事の別の語録(日露戦争後の心境を語ったもの)も引用しておきます。
「同じ有色人種国である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たと言う報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憬と祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私は、インドの独立について思いを致すようになった」
まさに日本人としても永代忘れるべきではないインド人こそ、この人なのです。
日本がアジアに自由と独立の喜び与えた
もう一点、特筆すべきは、「日本国がアジアに自由と独立の喜びを与えた」とする植民地解放、白人の有色人種差別撤廃運動に対する日本の国際的貢献をインドの人たちがたたえてくれていることです。1943年秋、日本の呼びかけで、アジア7カ国首脳が東京・帝国議事堂に結集して催された、世界初の有色人サミット「大東亜会議」での、共同宣言の採択です。
この会議にインドを代表して参加されたのが、仮政府首班・チャンドラ・ボースでした。大戦中から戦後、このチャンドラ・ボースをはじめ、マハトマ・ガンジーや、独立後のネール首相らに代表されるインド各界のリーダー・有識者の多くが世界へ向けて日本をたたえ、感謝の念を伝えました。その無数のメッセージは、いまだにインド政財界・文化人に継承されているというのです。
こうした観点から思い至るのは、むずかる中韓とは、しばらく距離を置き、インドを代表とするアジアの友好的諸国との心情的・政治外交的距離感をもっと短縮化すべき努力が、今こそ問われているのではないでしょうか。「近くて遠い反日国」より、「遠くて近い友国」をもっと、大事にすべきだと確信する次第です。
上田和男
こうだ・かずお 昭和14(1939)年、兵庫県淡路島生まれ。37年、慶応大経済学部卒業後、住友金属工業(鋼管部門)に入社。米シラキュース経営大学院(MBA)に留学後、45年に大手電子部品メーカー、TDKに転職。米国支社総支配人としてカセット世界一達成に貢献し、57年、同社の米ウォールストリート上場を支援した。その後、ジョンソン常務などを経て、平成8年(1996)カナダへ渡り、住宅製造販売会社の社長を勤め、25年7月に引退、帰国。現在、コンサルティング会社、EKKの特別顧問。
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