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李香蘭の往年のヒット曲「夜来香(イエライシャン)」「何日君再来(ホーリーチンツァイライ)」を本人、つまり当時の山口淑子参議院議員が熱唱するのを同じ宴席で聞いたことがある。このとき山口氏はすでに70歳だったが、優雅な北方風の中国語は満州映画協会(満映)専属のスター時代と変わらず、流暢(りゅうちょう)そのものだった。
山口氏が歩んだ李香蘭としての前半生は、エキゾチックな美貌と、日中両国語の完璧な話者という2つの条件を抜きに語れない。だが、大陸生まれの日本人少女を中国人と偽って「五族協和」「日満親善」の宣伝塔に押し上げたのは、甘粕正彦理事長ら満映による文化戦略だった。
敵味方が…ひとつの歌に安らぎ求め
旧満州国の首都新京(現吉林省長春市)に建設された満映スタジオは、「大陸文化の生産工場として東洋一の威容を誇る」(1939年版「新京案内」)とされた。映画は現在でいうソフトパワー獲得のために最も重視される存在だった。
李香蘭は、日満合作の「白蘭の歌」(39年)をはじめ、「支那の夜」(40年)などの国策映画で日本人ファンを魅了する一方、ラジオを通じて流れる中国語の歌声で、抗戦下にあった重慶など中国内陸でも中国人の心を引きつけた。




