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わたしのこれまでの小説のなかで、『流(りゅう)』ほど多様な読み方をされているものはない。祖父の死の謎を解くミステリーとしても読めるし、恋ありけんかあり傷心ありの青春小説として読んでいただいた方もいる。南米文学におけるマジックリアリズムとの相似性を指摘するむきもあれば、かつての台湾をノスタルジックに感じとってくれた方もいる。ありがたいことである。いろんな読み方ができる小説というのは、いろんな楽しみ方ができる小説だということだ。それはとりもなおさず、その作品に多面的な深度が備わっているということだろう。少々口幅ったいが、もしかすると拙著はそのように評価されたからこそ今回の受賞と相成ったのではないか。そんなことをひとり密かに考えて、悦に入っている今日この頃である。
小説というものは読者のものであり、作者の思惑などこれっぽっちも参酌する必要はない。だからこそ、良い小説というのは多面的な読み方ができる。しかし、ときには作者を困惑させることも起こりうる。この『流』に関して言えば、それは戦争小説として読まれてしまうことである。上梓後たちまち過分のお褒めにあずかり、多くの取材を受けたが、わたしの戦争観を俎上(そじょう)に載せようとする方がじつに多かった。無理もない。わたしがこの本の背景として選んだのは1975年の台湾であり、当時の台湾にはまだ国共内戦の影がいたるところにわだかまっていた。のみならず、主人公を苦しめる殺人事件のそもそもの発端も戦争に由来している。




