先の大戦末期に国内で唯一地上戦が行われ、民間人ら計約19万人が犠牲となった沖縄県で20日、生き埋めとなった将兵の遺骨が残るとみられる壕跡の特定に向け、初の本格調査が実施される。学生主体のNPO法人「JYMA日本青年遺骨収集団」(東京)が、地盤調査のプロの協力を得て実現。高度技術も駆使して解明を目指す方針で、遺族らは戦後80年を経た手がかりの発見に期待を寄せている。
昭和20年の沖縄戦で、日本軍は天然洞窟の壕(ガマ)に立てこもって抗戦。壕には民間人も避難したが、米軍は火炎放射などで攻撃し、沖縄県民の4人に1人が死亡した。厚生労働省によると戦没者の99.7%の遺骨は収容されたが、550人分がいまなお残されたままだ。
壕跡付近に慰霊塔
今回の調査地は、県南部・与那原町の住宅に囲まれた雑木林の壕跡。戦時中は小型舟艇で敵艦に体当たりする陸軍海上挺進戦隊の拠点で、弾薬などを保管していたが、20年4月29日に米軍の爆弾が直撃。久保正彦(ただひこ)少尉=当時(22)=ら7人と現地召集された4人が戦死し、遺体は壕内に取り残されたという。「救助作業の際に壕内から声がした」との住民証言もあり、壕内には爆撃で埋没した空洞があったと想定されている。
終戦直後、地元住民らは犠牲者のうち身元が判明した7人の名を刻んだ慰霊塔「若櫻之塔」を壕跡近くに建立。以降、戦友らが国や県に何度も調査の実施を要望した。
平成20年代、ようやく行政機関による調査が実施されたが、壕跡は特定できなかった。急傾斜で土砂崩れの恐れもあるとして、その後も詳細な調査は行われなかった。
遺族「迎えに行きたい」
一方、JYMAは年2~3回、沖縄県内で遺骨の調査・収容を続けており、4年前からこの壕跡での本格調査を模索してきた。地盤調査を専門とする大手企業の協力が得られ、実施にこぎつけた。費用の約100万円は一般からの協賛金で調達。土地所有者や地元住民の承諾を得て県にも報告した。
当日は地中探査レーダーなどの機器を使い、慰霊塔近くの斜面を探索する。壕の位置の特定を目指し、空洞の有無なども調べる。壕の形状などが判明すれば、遺骨収容に向けて大きく前進する。
久保少尉の甥(おい)、正喜さん(74)=佐賀県=は「長年、地元の人に祭ってもらって感謝している。遺骨が見つかれば、ぜひ迎えに行きたい」。JYMAの平野醇(あつし)副理事長(33)は「何とか、収容作業につなげられるような手掛かりが得られれば」と期待している。(池田祥子)
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沖縄戦 米軍が昭和20年3月26日に慶良間諸島、翌4月1日に沖縄本島に上陸して始まった日本最大の地上戦。組織的戦闘は6月23日、第32軍司令官の牛島満中将の自決で終結した。厚生労働省によると、戦没者18万8140人のうち、550人分の遺骨が未収容。沖縄県によると、戦後80年がたち、遺骨に関する情報の減少や住宅や道路開発などで収集は難しくなっている。





