取材・文=将口泰浩
新宿通りから少し入った通りに面する「本店」は創業昭和四十年、老舗らしい落ち着いた風情を今に伝えている。
店内は一階に清潔なカウンターとテーブル席、二階には四部屋の個室が設けられている。二階にある掘りごたつ式の「冬の間」を利用していたのが田中角栄である。
店に顔を出せないときも砂防会館の事務所や入院先の病院にも届けられていた。いつの日も注文は「」だった。
同じように「天重・雪」(税込二千三百円)をいただく。カウンター席に届く油を弾く音が心地よく、待つ時間さえ味わいのうちに思えてくる。
運ばれてきた天重にまず目を奪われるのは幾重にも積み上げられた天ぷらの量感である。箸を伸ばし、最初に口にしたエビは、軽やかな衣に甘めのタレをたっぷりと含ませている。これぞ半蔵門にふさわしい、お江戸の天重である。
エビは三本、一本は大葉が巻かれ、風味の変化を添える。あとはキス、ピーマン、レンコン。そしてかき揚げには小エビ、白魚、小柱、三つ葉、シメジが加わり、文字通りの総出演だ。この天重を入院先の病室で食べるとは事を成し遂げる男の胃袋の強さに度肝を抜かれる。
それにしても、これで二千円余りはかなりのお得感がある。ランチ天丼なら九百五十円と、老舗ながらも庶民的な姿勢を崩さない。
「このの値段がわからなくなったら政治家はお終いだ」
事務所に届けられた天重を口にするたび、周囲に語っていた言葉も日常の感覚から生まれた。名だたる料亭や高級料理店を知り尽くしながら、なお庶民のごちそうである天ぷらの値を意識する。角栄の政治観の一端がにじむ。これこそが「最終学歴は二田尋常高等小学校だ」と演説していた平民宰相の真骨頂である。
見栄を張ることがなく常に本音で生きる。その姿勢が人々を引きつけた。
昭和五十三年、母フメの葬儀が故郷の新潟県西山町で営まれた際、東京から政治家などの弔問客が詰めかける。姉が料理に粟島の鯛を勧めると、角栄は「鰯がいい。あれの焼きたてが一番うまい」と答えた。
当日、実家の裏庭にコンロ三十台が置かれ、もうもうと立ち上る煙が弔問客を驚かせる。大根おろしが添えられた焼きたての鰯は質素だが、滋味深い。他人に感謝し、おごることなく生きよと、言い続けた母にふさわしい料理だった。
生涯、故郷の味を好んだ。鮭や鰯、野菜がたっぷり入った味噌汁、濃いめに炊かれた野菜の煮物。盟友の大平正芳とすき焼きを囲めば、甘党の大平が砂糖を足し、そこに角栄が醤油を注ぐ。しまいには何とも奇っ怪な味のすき焼きに仕上がった。
しっかりした味付けののにもタレの上から、さらに醤油をかけて食べていた。雪国育ちの舌には世の中の料理は淡く感じていた。
残されている艶文も庶民的で味が濃い。八歳年上だった、はなと結婚する時、「出て行けと言わない」「足蹴にしない」「二重橋を渡る時に同伴する」の三つの誓いを立てている。三つ目は政治家として天皇に拝謁する際には正妻として同伴するという意味だった。
神楽坂に、もうひとつの家庭があった。神楽坂は午前と午後で一方通行が入れ替わる。午後、永田町から愛人宅に向かう角栄が坂を上り、午前に坂を下るための交通規制だと、まことしやかにささやかれた。
語る言葉は虚飾を排しわかりやすく、現実味と説得力がある。
「……と、ここまでが役人の作文。ここからが私の本当に言いたいことなんであります」と言い、だれにでも理解できる簡単な言葉で演説した。本質は平易な言葉に宿るというのが信条だった。
一千億円を動かしたといわれ、権力の中枢にいた角栄が入院先でも求めた好物の天重はどこまでも庶民の味だった。終生、ひとを魅了し続けた男の素顔が垣間見える。
(月刊「正論」3月号から)
半蔵門 天重本店
東京都千代田区麹町2-7 ▽アクセス/東京メトロ半蔵門駅から徒歩1分 ▽営業時間/11:30〜14:30、17:00〜22:30(L.O.21:50、ドリンクL.O.21:50)※土曜日はランチのみ ▽定休日/日曜、祝日








