上毛野。「かみつけの」と読む。おおむね現在の群馬県をさす。
おそらく五世紀のことと思われるが、同県中央部にある榛名山(はるなさん)が噴火した。ふもとには複数の集落があった。なかには人口の多いものもあったにちがいないが、それらの集落は、あるいは火砕流で蒸し焼きにされ、あるいは土石流に押し流され、どっちにしろ何メートルもの厚さの火山灰や泥土で覆われた。
ほんの一瞬で、と形容することも許されるだろう。田んぼで稲を育てたり、子供の笑い声を聞いたり、祭りの銅鐸を鳴らしたりといったような住民たちの思い出も、彼らの命ごと地表から姿を消したのだった。
何しろ古代のことである。記録の習慣がない。噴火の事実は忘れ去られ、その地には新たに人々が来て、新たな暮らしを営みはじめた。そうして平安時代、鎌倉時代、江戸時代…約一五〇〇年の時を経て、昭和五十六(一九八一)年、それはふたたびあらわれた。上越新幹線の敷設工事に先立って発掘調査がおこなわれ、火山灰が取り除かれたのだ。
榛名山が埋めたものを新幹線が掘り出した、といえなくもない。そこには王の館があった。発掘と研究はめざましく進展して、その知見と出土品のかずかずは、現在、高崎市の上毛野(かみつけの)はにわの里公園内、かみつけの里博物館で見ることができる。
これはいい博物館だ。私は脳みそのいろんな場所を刺激された。たとえば発掘調査で別の土地の火山灰を剥がしたところ、水田があらわれ、おびただしい数の人の足跡(あしあと)があった。
泥土で作業していたのだろう。水田は畦(あぜ)で正方形に区切られ、碁盤の目状になっていたが、異例なのは、その区画のひとつずつが極端に小さく、現代の畳一枚か二枚ぶんしかないことだった。
同館の展示用語でいえば「ミニ水田」。こんな手間のかかりそうな造りにしたのはなぜかを学問的に推測する展示など、まるで名探偵の講義を聴いているよう。私は心がわくわくした。いずれにしてもこの地方では、そうとうな数の住民が、そうとう組織的な社会を築いていたことはまちがいなく、つまりはそのぶん、彼らを支配する王の権力も強いと見ることができるわけだが、さて、その強さはどれほどか。
これは、博物館を出ればわかる。同公園には王たちの霊をねんごろに葬(ほうむ)った古墳も三つあるからで、特に目を引くのは八幡塚古墳。
これは最近の復元だけれども、なーんだ復元かと侮っていいものではない。いったいに私たちは古墳というと、教科書の最初のほうで大仙陵(だいせんりょう)古墳(仁徳天皇陵)のような関西の有名どころの写真を見せられるせいか、ついついブロッコリーのように緑ゆたかな丘を想像してしまうけれども、元来は土木建造物である。土肌(つちはだ)はむきだしで、円錐(えんすい)台や四角錐台などの形にととのえられ、まわりには無数の陶製器物(いわゆる埴輪(はにわ))をずらっと立てる。
ブロッコリーになったのは、のちのち木が生えたからなので、新築時の人工の極致というべき姿はむしろ復元によってしか見ることができないのだ。しかもこの八幡塚古墳の場合は、見るだけでなく、気軽に足を踏み入れることもできる。
前方後円墳の上を歩くなど、なかなか得がたい経験だろう。実際、前方部のまんなかに立ってみると、標高(?)が思いのほか高いのに驚く。地上の人々がじつに小さい。埴輪も小さい。だが顔を上げ、北西の方角へ目をやると、そこには榛名山があった。
地上から見るより、だいぶん近い。ほとんど胸がつまるような気までしたのは、これはもちろん古代の噴火のことを思い出したからである。
あの民家を埋め、人々を埋め、「ミニ水田」の広がりを埋めた火砕流や土石流は、しかしおそらく、この古墳のてっぺんにまでは達しなかったろう。古墳はその後もやはり地形を保持したろう。だからこそ「八幡塚」という名が残ったわけで、実際この古墳は、すでにして戦前の時点で発掘調査がおこなわれている。わざわざ新幹線の敷設を待つまでもなかったのである。
庶民の生(せい)が滅ぼされ、王の死の跡(あと)が生きつづける。これは自然の摂理なのか、それとも壮大な皮肉なのか。もとより私の目の前の榛名山はおだやかで、それこそ虫も殺さぬ顔をして雲の帽子をかぶっている。私はこっちの小山(こやま)に立って、あっちの大(おお)山(やま)を望み見ている。





