沖縄を出港した学童疎開船「対馬丸」が鹿児島県沖で米潜水艦に撃沈され1484人が犠牲になった事件を後世に伝える「対馬丸記念館」(那覇市)の展示パネルを巡る市議の発言が物議を醸している。疎開の真の目的が«続く戦争の次の戦力となる子どもを確保すること»とした説明について、「間違っている記述は適切ではない」として市議が議会で問題視した。記念館の平良次子館長は産経新聞の取材に「史実を基に書かれており、間違いではない」と反論している。
展示パネルの記述を問題視しているのは、自民党系会派の大山孝夫・那覇市議。11日の市議会6月定例会本会議の一般質問で、«安全な場所へ避難させ命を大切に守るというよりも 軍の食糧を確保し 戦闘の足手まといになる住民を戦場から避難させ 果てしなく続く戦争の次の戦力となる子どもを確保することが真の目的でした»とのパネルの記述を疑問視した。
大山氏は「全く間違いとは言えないが」と前置きした上で、「戦闘における住民避難、住民を戦場に巻き込まないということが真の目的ではないか」と発言。台湾有事を念頭に「(パネルを見た子供たちが)『兵士になるために避難するんでしょ』と言われた時、私たちは何をもって違うと説明するのか」とも述べた。
大山氏は12日、産経新聞の取材に「命を守るより戦力確保が真の目的というのは違和感を覚える。台湾有事を見据え、子供が避難する際、『私たちが次の戦力なんですか』と聞かれたら説明がつかない。そういう子供が出てくるのではないかと懸念した」と振り返り、「戦後80年を迎え、戦争体験者が少なくなっている。市内の学習施設で誤解を招きかねない記述があったので問題提起した」と語った。
一方、大山氏に問題視されたパネルの記述について、平良館長は「各市町村史にも書かれている。そう読み取れる史料が実際に残っており、誤りではない。戦時中の事実を展示しているだけだ」と強調した。
対馬丸は対馬丸は昭和19年8月16日、上海から兵員を乗せて沖縄へ向けて出航し、19日に那覇港に入港。兵員を降ろした後、那覇市の8校の国民学校の生徒ら県内から集まった疎開者を乗せて本土へと運んだ。出航して27時間半が経過した22日午後10時12分、鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で「真珠湾の復讐(ふくしゅう)者」の呼び名を持つ米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、沈没した。
いかだや板切れにつかまっていた多くの人が波にさらわれ、暗い海の底へと沈んでいったと伝わる。
国民学校の学童や教員、一般疎開者ら1788人が乗船したとされ、死者数は1484人。6歳以下の子供を含めると、約千人の幼い命が奪われた。このうち学童の犠牲者が784人を占めるが、いずれも名前が判明した分のみ。船を護衛するため乗船していた旧陸軍船舶砲兵隊員も41人中21人が犠牲になった。




