「咲く花のにほふがごとく」と、繁栄ぶりが和歌にうたわれた平城京。しかし、それから10年もたたないうちに、貴族の約4割が亡くなったと記録に残るほどの天然痘の大流行に襲われた。当時の〝水際対策〟が、九条大路で行われた祭祀(さいし)「道饗祭(みちあえのまつり)」とされる。鳥取市で行われた講演会「古代の道と祭祀」ではサブタイトルを「疫病は道を通ってやってくる?」として、感染症に対する古代人の意識が明らかにされ、長引く新型コロナウイルス禍に直面する市民の関心を集めた。
平城京を2度襲った天然痘のアウトブレイク
「平城京の南辺・九条大路の羅城門近くに位置する『前川遺跡』で、大量の土師器(はじき)杯や皿、椀(わん)が出土した。これは天然痘禍で行われた道饗祭の直会(なおらい)(祭りごとの後の宴会)の痕跡だと考えている」
講演会は鳥取県埋蔵文化財センターが主催。奈良文化財研究所都城発掘調査部考古第二研究室長の神野(じんの)恵さんは、こう研究成果を発表し、古代人にとって「道」は、神々や精霊を迎える場所である一方、邪悪を追い払う場所でもあったとして、「道饗祭は神をまつって鬼魅(きみ)(鬼やばけもの)が都に入ってこないようにした祭り。路上に物を供え、おもてなしし退散を願った」と説明した。
天然痘の大流行は天平7(735)年、同9年の2度にわたって発生したとみられており、このうち9年の流行は、4月に大宰府管内で発生し7月には都へ波及した。平安時代初期に編纂(へんさん)された歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、6月の記録として「廃朝。以百官官人患疫也」と、官人がことごとく天然痘に感染し朝廷の政務が止まったと伝えている。4~8月の間には、いずれも藤原不比等の子で、当時権力の中枢にあった武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の藤原4兄弟が相次いで感染して死亡するなど猛威をふるった。
感染者邸宅の食器を廃棄
「朕以不徳実致玆災」
続日本紀の天平9年5月19日条にはこんな記述があり、聖武天皇が「朕の不徳ゆえにこの災禍に至った」と、天然痘の流行に対して責任を感じ、自らの不徳を認めたとする。この時代、人々に安寧な暮らしをもたらすのは為政者の徳と考えられていたためだ。聖武天皇は天然痘の流行に対して祈禱(きとう)や人々に対する生活支援、医療提供などあらゆる対策を講じたとされ、道饗祭もその対策の一つだった。
天然痘に対する古代人の認識をうかがわせる遺物は前川遺跡以外からも出土している。都のメインストリートだった二条大路では大きなごみ捨て穴(濠状土坑)が確認され、大量の土器や木製品などが、天然痘の終息を願う呪符木簡とともに出土した。この場所は、藤原麻呂の邸宅前で、神野さんは「麻呂の邸宅で使われた食器が、天然痘感染防止のため、まとめて廃棄されたのだろう」と述べ、現代に通じる古代人の感染予防対策だったと分析した。
さらに奈良時代前半と後半で出土する土器が、大型のものから小型へと変わり、「共食から個食」への変化がみられると指摘。天然痘の大流行が境目とみられ、「蔓延(まんえん)防止のための変化で、新しい生活様式への転換だ」と述べた。
死や病の場でもあった「道」
平城京跡からは当時のイスラム圏や唐、新羅などの文物が出土している。平城京は人口が密集し外国との交流が盛んに行われた国際都市で、疫病が流行する条件はそろっていたという。天平9年の大流行では、朝廷が新羅に派遣した使節(遣新羅使)が1月に帰国したものの、天然痘に感染し正使は対馬で死亡、副使もその年、奈良に入ることができなかった。こうした史実を踏まえ、神野さんは「天然痘は新羅からもたらされたのではないか」と推測し、「古代人は人が動くと疫病も動くと知っていた」と話した。
「古代人にとって道とは、政治・経済的には軍隊を動かし、税金を運び、海外使節などに国家の威信を表す場所だったが、実際には、税金を運ぶ途中に民衆が行き倒れるなどする『死』や『病』の場でもあった」
こうした場所であるがゆえに、各地で確認されている古代の道路遺構からは、災いを取り除くべく人々の思いが託された人形(ひとがた)や馬形などの祭祀具が見つかっている。
天然痘の大流行を受けて聖武天皇は、道饗祭を行うよう長門(現在の山口県)以東の諸国に命じたという。「律令制度の浸透を明らかにするためにも、各地での道饗祭の祭場の発見が期待される」と、神野さんは語った。(松田則章)






