「虎番」になって初めてのドラフト会議(11月26日)が近づいていた。筆者の注目は、高校野球の取材で仲良くなった高知商のエース中西清起(きよおき)。彼の希望は「阪神」。指名される可能性は十分にあった。
昭和55年のドラフトの特徴は、事前に行きたい球団を公表し「希望球団でなければ入団しません」と〝逆指名〟する選手が多く出たこと。
最大の〝目玉〟選手は東海大の「さわやか若大将」こと原辰徳。希望は巨人と大洋。だが他の球団も指名の構え。西武を希望するプリンスホテルの石毛宏典。ヤクルト希望は新日鉄室蘭のエース竹本由紀夫。夏の甲子園の優勝投手、横浜高の愛甲猛の希望は在京球団。
こうして指名予想球団を振り分けていくと、阪神が中西を〝一本釣り〟できる可能性は高かった。
ところが、ドラフト2日前の24日、突然、中西が社会人野球の「リッカーミシン」入りを表明したのである。
「いまのボクはあと3年、自分を見つめ直す時間が必要だと思います。社会人で人間的にも技術的にも数段進歩してからプロに入るのも悪くない」
リッカーの初任給は月額10万円。もちろん支度金もない。プロに行けば数千万円の契約金と年俸300万円以上は堅い。なのに「お金は関係ないんです」という。〈何を格好つけとるんや〉高知商での記者会見に行けなかった筆者は、もどかしさと落胆で胸がいっぱいになった。
中西とは3年後、58年のドラフトで阪神から単独1位指名され〝再会〟した。ある日、「あのとき、ほんまは何があったんや?」と尋ねた。
「実は明治大学へ進学するつもりだったんです」と中西は照れくさそうに話し始めた。高知商には昔から〝明大ルート〟があった。中西も周囲から進学を勧められた。
「でも、阪神にも入りたかった。だから〝もし阪神に指名されたらプロへ行きます〟と言ったら、島岡御大(当時の明大監督)の〝逆鱗(げきりん)〟に触れちゃって…。あの頃はアマ野球の力が強い頃やから。後輩たちのためにも明大ルートは壊せないしね」
進学もプロもダメ。大人の事情に18歳の少年が翻弄された―ということ。
「でもね、あのまま阪神に入っても2、3年は2軍生活。それより、社会人に行って〝即戦力〟になって入団する方がいいと思った」。その言葉通り、大きく成長した中西は小林の背番号「19」を継いだのである。(敬称略)