《日は暮れぬ、予が暗黒の世界に入るべく踏(ふみ)出しの時刻は来(きた)りぬ》
飢えに苦しむ貧困層の実態を伝えるために、実際に一緒に生活してみよう。そう考えた筆者は、準備のために数日間、野宿をして食事を抜き、浮浪者を装って、東京・上野の貧民街に身を投じる。
ところが初日の木賃宿で、熱気や呼吸もままならない悪臭、蚊やシラミ、ノミに悩まされて、まったく眠れないまま一夜を明かし、落ち込んでしまう。
《実際の世界を見るに及んで忽(たちま)ち戦慄し、彼の微虫一疋(いっぴき)の始末だになすことを得ざりしは、我(わ)れながら実に腑甲斐(ふがい)なき事なりき》
なんともユーモラスな書き出し。ジャーナリスティックな視点を持ちながら、大上段に構えることなく、正直な気持ちも吐露する。《ああ予はこの日はからずも》《読者試みに想像せよ》…。「等身大」のルポルタージュは、独特の語り口でぐいぐいと読者を引き込んでいく。
松原岩五郎は、明治25年に国民新聞の記者となった直後から、貧民街の実態を伝えるルポルタージュを次々に発表していった。それを集めて出版したのが『最暗黒之(の)東京』だ。
当時は東京のあちこちに貧民街が存在していた。松原は廃屋のような家々がひしめく土地を渡り歩きながら、住居から家財道具、生計の立て方まで詳細に記述。「四ツ谷鮫ケ橋」(現在の新宿区)の貧民街では残飯屋に就職し、傷んだ飯も売ってしまう商売の内幕を赤裸々に書き記す。
貧困から抜け出すことの困難さ、社会の理不尽さなどが胸に迫る。刊行間もなく版を重ね、英訳までされたという。ルポルタージュの先駆的存在として、時代を代表する作品になっていく。
「読んだ人々が共感するのは、今では当たり前。けれども、当時としては画期的だった」と、明治期の記録文学に詳しい三重大副学長の尾西康充さん(国文学者)は解説。当時、同種の見聞記が他の新聞にも相次いで掲載されたのも、「国民」意識の形成期と無関係ではないと指摘する。
「封建社会では、階級が違えば関心がない。江戸末期には身分もかなり流動化するが、それでも、日本人としてこの人たちにどう手をさしのべるかという意識はなかった」
同書は、貧困の当事者向けではなく、他者、つまり新聞や本の読者による共感や行動を期待してつづられている。最下層も富裕層も同じ人間であるという近代的価値観が前提だ。それを可能にしたのが「言文一致体」だった。江戸時代、武士のは漢文、平民は平仮名。漢字かな交じりの言文一致体は「国民」の誕生を示している。
帝国憲法施行と帝国議会の開設が23年。国のかたちを整え、繁栄の道を進み始める一方で、社会から脱落していく人たち。放置していいのか。松原は訴える。
《鹿鳴館の仮装舞踏会と貧民社会の庖厨(だいどこ)騒ぎとに軽重のあるはずなし》
尾西さんは、「私的な考え」と前置きした上で、「同じ日本人として、苦しんでいる日本人がいるのは良くないと考える。他者に共感する心からナショナリズムが発露し、真正な国民感情が形成されてくる」。
版元を変えながら長く読み継がれ、最新の講談社学術文庫版『最暗黒の東京』は平成27年に刊行された。企画した同文庫編集部は「五輪開催で盛り上がる一方で、東京は相変わらず格差や貧困の問題を抱えている」と再刊の理由を語る。読者からは「現代にも通じる問題が描かれている」などと好意的な感想が寄せられているという。(篠原知存)
松原岩五郎
まつばら・いわごろう 慶応2(1866)年、伯耆国(現・鳥取県)生まれ。一時、慶応義塾(現・慶応大)で学んだ。二葉亭四迷、幸田露伴らと交友があり、小説『長者鑑』などを出版後、新聞記者に。明治26年に乾坤一布衣(けんこんいちふい)の筆名で刊行した『最暗黒之東京』で評判を集め、ルポルタージュの開祖などと呼ばれる。日清戦争に従軍記者として派遣された。北海道についての紀行文を記し、「大雪山」の命名者といわれる。昭和10年死去。
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次回は28日『吉田松蔭』(徳富蘇峰)です。




