江戸時代末の元治元(1864)年7月19日、京都御所の近くから「パン、パン、パン」と銃声が響き渡った。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の火ぶたが切られた瞬間だった。御所を守る幕府ら公武合体派の相手は長州藩を中心とする攘夷派。結果的に攘夷派が鎮圧されるが、天皇の住まい周辺を兵士の血で汚す凄惨(せいさん)な戦いとなった。以後、両軍は泥沼の戦いへと突入するが、実はこの因縁の対決、1年前のある政治事件から始まっていた。
この門、入るべからず
アメリカのペリー来航以来、次々と押し寄せた諸外国と開国条約を結んだことから、国内世論が開国派と武力で外国人を追い払う攘夷派に二分されていた。
孝明天皇も幕府に攘夷を約束させるなど熱心な攘夷主義者だったが、攘夷を決行しない幕府に業を煮やして過激な行動を起こす長州藩の傲慢な行動も苦々しく思っていた。
そんな中、文久3(1863)年8月18日、京都御所の9カ所の出入口がいつにも増してものものしい雰囲気に包まれた。
さらに、御所の南にある堺町御門にはいつもの長州藩士の姿はなく、薩摩藩士が固めていたのだ。
午前4時、御所に呼び出された各藩関係者を前に、三条実美ら過激な攘夷を主張する公卿(くぎょう)の参内(さんだい)禁止▽長州藩の堺町御門の警備解任▽攘夷祈願の大和行幸(ぎょうこう)の延期-を決定する。



