西洋帝国の植民地支配からアジアを解放すると唱えて日本は大東亜戦争に突入したが、その日本は植民地帝国として朝鮮を支配していた。その矛盾を見据えた人に河合栄治郎(1891~1944)がいる。
日本人の大アジア主義を批判
河合は昭和8年11月号の『文芸春秋』で犬養毅首相を暗殺した少壮軍人の大アジア主義思想を批判し、もし「何等の領土的野心を持たないで、ただアジアに於て日本が外国と平等の通商貿易をなすことを目的とするならば、直截に通商の自由を標榜(ひょうぼう)した方が実行の可能性も多い」と指摘し、日本がアジア解放をリードするについては「内部に於て同胞に対してさえ」すなわち自国の植民地の人々に対してさえ十分の自由を与えていない以上、その日本からアジアの人はどれだけの期待を持ち得るだろうか、おそらく「日本の力を借りることに賛成はしまい」と日本人の高過ぎる自己評価を戒めた。
では河合はいつからそのような意見を抱くに至ったのか。
新渡戸稲造に学んだ河合は言葉の才に恵まれた。日本語であれ英語であれ、文章も講義も生き生きしている。第一次大戦の終わる1918年、ニューヨークのオペラハウスでウィルソン大統領の歴史的大演説を聞いた。22年に若き東大教官として渡英するや、名士を歴訪して臆する風がない。女性にももてた。その河合はウッドブルック・コレッジに寄宿中、日本および極東について講演した。そこには若い韓国人留学生、尹●善(ユン・ボソン)(1897~1990)がいた。
日頃、日本に対する反感を同学の人に漏らしている。河合は明治維新から説き起こし日清・日露の戦争を経て、いかに日本が帝国主義的になってきたか因果を語り、日本の外交の難ずべきを難じ、東亜の小国、日本をこの方面に赴かせた欧米の政策責任にも触れた。
すると尹が立って「先ほど日清戦争は朝鮮をシナより救うが為に起こったと説かれたが、果して朝鮮は救われたかどうか。シナより救われた朝鮮は日本の支配の下に落ちた」と述べ、三・一独立運動の際の日本側の弾圧を非難した。
短い友情で結ばれた二人
河合の『朝鮮のこと』(昭和2年)に詳しいが、日本の圧制を訴える尹青年の顔は青ざめ声は激した。クェーカー(キリスト友会)の学校だけに聴衆の顔にも弱国・朝鮮への同情と、強国・日本への反感が明らかに読まれた。
河合は弁明した。自分は日本の朝鮮における政治に詳しくない。尹氏の話の内容を否定も肯定もできない。「ただ敢(あ)えて尹氏に聴いて戴(いただ)かねばならないことは、自力を以て自国を防ぎえない国を隣に持つことは、日本にとって大きな不幸であった。此(こ)の不幸が日本をしてあなたの云われるような誘惑に陥れたのである」
すると聴衆は今度は拍手で河合の見方を受け入れた。河合の英語原稿断片には「一国民が他国民を支配するのは最大の難事で普通の人間にできることではない。相手の心の琴線に触れるような大人物でなければこんな大事業に成功できるはずはない」とある。だが論戦を交わした二人は英国で短い友情で結ばれ、学期末、「二人は温かき握手を交わして別れた」。
尹との論戦が深く胸に刻まれたことは河合の随筆からもわかるが、五・一五事件の直後、河合が大アジア主義の虚妄をつき、日本は植民地同胞に対して十分な自由を与えていないのに、アジアの植民地解放という正義の御旗を掲げる資格はあるのか、と冷静な疑義を呈したことからも窺(うかが)われる。
河合は問題の深刻さを感じたからこそ『朝鮮のこと』で、「朝鮮の人達がどれほど(統一国家独立維持の)力を持っているかも私の知る所ではない。然(しか)し少なくとも朝鮮は朝鮮人のものであり、日本は朝鮮人の為の朝鮮を考えて往(ゆ)くべきことだけは明らかであろう」と結んだのである。
日本人との交際非難する韓国
早世しなければ河合栄治郎は戦後日本の首相に選ばれた人である。他方、尹●善は李承晩が亡命したあと韓国大統領に選ばれた人である。河合と尹が日韓首脳として握手する図は現実にはありえなかったが、しかし独立後の韓国では、そんな「温かき握手」を想像することすらよくないらしい。
過去において日本人と親しく交際した人は、相手がどのような日本人であれ、非難の材料となり得るからである。現に尹大統領の回想では、河合は論戦で懲らしめられ恥をかかされたことになっている。しかも尹はその後の英国滞在中、日本人とは一言も口をきかなかったことを誇りにし、一周忌の席でも周囲は尹の生一本な両班(ヤンバン)気質を褒めそやした由である。
東大の教室で、韓国の留学生が「日本人への黙秘権」と称する尹の主張も調べて発表した。すると、米国の留学生が叫んだ。「互いに口をきかなければ進歩はない。若きわれわれは未来に義務付けられている」。その自由な声に私はほっとした。これこそが民主主義の国から来た人の声だと感じたからである。(ひらかわ すけひろ)
●=さんずいに普




