川口市出身の演出家、蜷川幸雄さん(79)が、15日で80歳の誕生日を迎えた。世界的な活躍の一方で、彩の国さいたま芸術劇場(さいたま市中央区)の芸術監督を務めるなど、故郷を大切にしてきた蜷川さん。同劇場での舞台稽古の合間に、川口への思いと、これからの芸術活動について聞いた。(聞き手 川峯千尋)
――蜷川少年はどんな子供でしたか
勉強のできる野球少年。「ゆきちゃんはよく勉強ができる子」って地元では有名だった。荒川の水練場で水泳も習っていた。
――野球のひいきは…
これ言っちゃあまずいかな。巨人が負けると喜ぶ子だったね(笑)。
――川口について
荒川を渡って左方に公団アパートがあって、40歳ぐらいまではそこに住んでいた。子供のころは鋳物工場がいっぱいあって、俺の隣の4軒先がもう町工場。砂とほこりにまみれて、鉄を湯のように溶かすから、職人さんは泥だらけ。それで、ふんどし一丁で銭湯行って、汚れを落とす。荒くれた町だったね。
――影響を受けた?
一番は、言葉が直接的なことだね。工場じゃ火が飛んだりするから、間接的じゃ間に合わない。「危ねえぞ」「まぶたを閉じるな」とか。直接的なのは、自分の言葉にも演出にもあるだろうな。
――思い出の場所は
荒川の土手かな。戦時中、前橋の陸軍学校に親戚(しんせき)のお兄ちゃんが出征するんで、土手で親や親戚がずらっと並んで待っている。そうすると汽車がゆっくりと止まって、それで最後のお別れをして去っていく、あの光景かな。
――今でも川口は懐かしい?
赤羽から鉄橋を渡って埼玉に来ると、溶鉱炉があって火がボーッと上がってる。それを見ると、川口に帰ってきたなって感じがするね。
――さいたま芸術劇場では今年、80歳を記念したアニバーサリー事業を展開しています
タレントがよく誕生日会をやるのを見てて「恥ずかしいな」と思ってたから、いざ自分が祝ってもらうとなると恥ずかしい。でも、一人で演出家になった訳じゃないし、みんなが手伝ってくれたからここまでになれた。そう思うとやだやだとも言ってられなくて、恥ずかしいのをこらえながら祝っていただいています。
――彩の国さいたま芸術劇場の魅力は
本当はハンコがないとできないようなことでもまずやってみて、後でハンコを探すようなところ。良い仕事のためなら考え方を融通し合って実現しようとしている、世界に例のない劇場だと思う。他の劇場は管理管理ってうるさいんだよ。
――埼玉に芸術が根付いてきた感覚は
まずは僕らが仕事していることを知られるようになったかな。(劇場前の)交差点で待っていても「今日は劇場ですか」と声をかけてもらえるようになった。昔は2分ぐらいのそば屋の出前に「芸術劇場ってどこですか」って言われてきたんだから。
――やりたいことは
もう引退したい(笑)。歳だから。昔の自分の方がイメージがいいか、今も大丈夫かを厳密にチェックしているつもりだ。マクベス(NINAGAWA・マクベス)だって昔はすごかったなと思うが、今それに拮抗(きっこう)するイメージを自分が持っているかというと自信がない。だけど、まだ大丈夫と思っている。
――演出の後進教育は
助手志望が来たら使ってみるが、こいつだと思ってたのがダメだったり。だって役者より物事を知ってなきゃ、誰もダメ出しなんか聞かないでしょう。俺は知らない固有名詞があれば名前だけじゃなくて、その人の書いたものから何から必死になって勉強した。そういう意味で言うと、なかなかうまく育っていない。
――若手俳優のネクスト・シアターも立ち上げた
有名なプロダクションや劇団でなくても、ネクストで勉強したらいい俳優として旅立っていけることを証明したかった。実際には辞めていく人もいっぱいいるけれど、種はまかれていると思う。
――ゴールド・シアターも高齢化が進んでいる
今までは公演でセリフを忘れたらスタッフが教えて成り立っていたけれど、耳が悪くなって聞こえなくなったら別。どの程度の不自由さになるか、どこまで行くのか分からないから、世界に例のないことをやろうとしてるんだと思う。
――劇場内では蜷川作品を振り返る展示も…
俺、そういうのに興味ないんだ。今、今、今。ロンドンで世界の10人の演出家に選ばれたけれど、自分ではもう3、4人のところまで来ていると思う。でも、ヨーロッパはそう思っていないから、戦っていくんだよ。見た人を感動させて味方にすればいいんだから。
蜷川幸雄
にながわ・ゆきお 昭和10年10月15日、川口市生まれ。44年に「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビュー。55年、シェークスピアの代表作「マクベス」を日本の安土桃山時代に置き換えた「NINAGAWA・マクベス」の大胆な演出で世界に名をはせた。平成18年、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就任。高齢者演劇集団「さいたまゴールド・シアター」、若手俳優育成プロジェクト「さいたまネクスト・シアター」を発足させた。21年県民栄誉章、22年文化勲章。




