「戦国時代、最強の武将は誰だと思いますか」という質問をされると、迷わず武田勝頼と答えることにしている。それだけ勝頼は、武将として比類がないほど勇敢で有能だった。
それでは大名としては、どうだろうか。
信玄の息子であっても、勝頼は当初、武田家の家督継承予定者には入れられていなかった。それゆえ、信玄が乗っ取った信濃国の諏訪家に養子入りさせられる。しかし、謀反の疑いで長男の義信が自害を強要され、次男は失明、三男は早世と不幸が重なり、四男で側室腹の勝頼に、家督が回ってきた。
ところが勝頼は、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった信玄股肱(ここう)の宿老たちから、必ずしも当主になることを歓迎されていなかった。
実は、「勝頼では危なっかしい」と宿老たちが思っていた節がある。
勝頼は、元服した17歳から当主を継いだ28歳まで、宿老たちと幾多の戦場を共にしてきており、もしも勝頼が、猪(いのしし)武者にとどまらない優秀さを発揮していれば、いかなる理由があれ、宿老たちが反対することもなかったに違いない。
『甲陽軍鑑』では、勝頼を「強すぎたる大将」と呼び、勝頼側近の安倍加賀守宗貞に「ただ強すぎて今明年(こんみょうねん)の内に討死なさるべきかと存ずる」と案じさせ、勝頼の謀臣・長坂釣閑斎(ながさかちょうかんさい)には、「勝頼様の武辺形儀(ぶへんかたぎ)は信玄公よりも謙信公に似ている」と言わせている。
つまり勝頼は、破格に勇猛果敢な若武者だったのだ。
となれば勝頼は、その強みを生かして勝利を重ね、当主としての権威を確立せねばならない。
ところが信玄死去後の武田家中の混乱に付け入り、天正元(1573)年9月、三河国の徳川家康が、武田方となっていた奥三河の長篠城を奪還した。
これまでの徳川領における武田方の拠点城は、遠江の犬居と二俣の2城、三河の長篠・田峯(だみね)・作手(つくで)の3城であり、とくに二俣・長篠両城は、それぞれ浜松城と吉田城という家康の生命線に、白刃(はくじん)を突き立てる格好になっていた。
その一方が攻略されたのだ。反撃に出なければ面目がつぶれる。
翌天正2年正月、勝頼は東美濃への侵攻を開始、正月から4月にかけて、明知(あけち)城をはじめとした18城を攻略すると、五月には遠江の要衝・高天神(たかてんじん)城を囲んだ。
城主の小笠原氏助(うじすけ)は寄親(よりおや)の家康に後詰(うしろづめ)を請うが、9里西方の浜松城にいる8千の徳川勢(総兵力1万5千)だけでは、侵攻軍だけで2万から成る武田方に抗すべくもない。それゆえ家康は、同盟している織田信長に後詰を要請する。



