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チュニジア革命10年 青写真描けず 多賀敏行・元駐チュニジア大使寄稿

多賀敏行・元駐チュニジア大使(大阪学院大教授)
多賀敏行・元駐チュニジア大使(大阪学院大教授)

 あれから10年がたった。思い出されるのは、首都チュニス郊外の日本大使公邸を脱出した夜のことだ。2010年12月に始まった騒乱は、年をまたいでさらに熱を帯び、ベンアリ大統領(当時)が1月14日に国外に脱出する事態に至った。

 大統領宮殿にも近かった日本大使公邸付近では16~17日、大統領派の残党と正規軍の間で激しい銃撃戦が繰り広げられた。公邸にいた私や公邸料理人ら3人はうつぶせになって、銃撃戦がやむのを待った。

 掃討作戦の一環として、銃を抱えた正規軍兵士3人が公邸敷地内に入り込んできた。われわれの誰か一人でも恐怖に耐えきれずに声をあげていたら、われわれに向けて発砲していただろう。われわれはよく耐えた。

 17日午後、「公邸を出てチュニス市内にある大使館事務所に移ったほうが安全」と判断し、チュニジア外務省を通じ軍・警察による保護を頼んだ。

 日が沈んだころ、警察の車列が到着した。私は普段着からスーツに着替えた。その方が、運悪く銃弾に当たって倒れても私が何者か分かってくれるだろうとの考えもあった。

 車はゆっくり走り出し、チュニス中心部に続く幹線道路に入る。私たち以外の車は見かけない。不思議な静寂が支配していた。

 国際空港の横を通ると、迷彩塗装の兵員輸送車が1台、横倒しになっていた。黒焦げだ。路上に散乱したコンクリート片などの除去のため車は何度も止まった。ベンアリ氏のポスターを貼り付けた看板も2つに割られ、横たわっていた。数日前までこの国を統治していた独裁者の顔がずたずたに破られていた。

 この政変は「ジャスミン革命」と呼ばれ、いわゆる「アラブの春」の先駆けとなった。

■ □ ■

 革命、政変が起きた際、現地大使館の最大の任務は邦人を保護し、その生命を守ることである。チュニジア革命の勃発時には約180人の在留邦人、約200人の日本人観光客がいた。

 観光客の3分の2は17日にアリタリア航空とカタール航空でチュニジアを出国することに成功。翌18日には残る3分の1が出国できた。領事班を中心とする館員の奮闘努力が大きいが、約1週間という比較的短い期間で騒乱の危機的状況が一段落したということが幸いした。運に恵まれていたともいえる。在留邦人を含む全員が危機を乗り切れたことは奇跡的であった。

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