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有本嘉代子さん、娘待ち続けた「陰膳」 「会いたい」願いかなわず

有本恵子さんの幼い頃のアルバムを見ながら微笑む母の嘉代子さん=神戸市長田区(頼光和弘撮影)
有本恵子さんの幼い頃のアルバムを見ながら微笑む母の嘉代子さん=神戸市長田区(頼光和弘撮影)

 娘の帰国を祈り続けた母の願いはかなわなかった。3日に亡くなった有本嘉代子さんは北朝鮮に拉致された三女、恵子さん(60)=拉致当時(23)=の様子を、最期まで気にかけていた。

 テレビの報道番組などで北朝鮮の厳しい暮らしを目にするたび、「どないしてるんやろ」と恵子さんを心配していた。なるべく見ないようにしていたとはいうが、不安はつきることがなかった。

 1990年代後半から、毎食、恵子さんの無事を祈り、留守中の食事を用意する「陰膳(かげぜん)」を続けていた。北朝鮮の食糧危機を知り、「向こうでは食べられへんの違うやろうか」と思ったからだった。

 恵子さんが北朝鮮にいることが分かったのは昭和63年。北朝鮮に住んでいるとの内容の手紙が届き、夫の明弘さん(91)とともに、外務省や政治家の元へ足を運んで、救出を訴えた。だが、要望が行動に移されることはなかった。

 当時、日本国内で拉致問題は知られていなかった。娘を連れ去った北朝鮮の「闇」との闘いだけではなく、拉致に対する理解のなかった中央官庁や政治家たちにも振り回され続けた。

 恵子さんがようやく拉致被害者として認定されたのは、平成14年。日航機「よど号」乗っ取り犯の元妻(64)が、恵子さん拉致に関わったことを告白した後のことだった。

 「日本人として絶対に許されへん」。最初は、よど号乗っ取り犯グループに強い怒りを持っていた。それでも、恵子さん拉致への関与を明らかにした元妻が謝罪すると、受け入れた。元妻が当時、子供を北朝鮮に残していることを知ったからだった。同じ母として、気持ちが理解できたからなのか嘉代子さんが元妻を批判することは皆無だった。

 80代半ばを過ぎても、夫の明弘さんとともに集会や講演に出かけ、拉致被害者救出を呼びかけた。心臓を病み、東京など遠隔地での活動にはほとんど参加することはなくなっていたが、地元の関西では、亡くなる直前まで懸命に活動した。

 有本家で毎食のように、並べられていた陰膳。本当は、娘に温かいご飯を食べさせたかったに違いない。

 毎年1月の恵子さんの誕生日には報道陣を自宅に招き、ごちそうを並べ、ケーキにロウソクを立てて祝い、帰国への国民の後押しを呼びかけた。だが今年、体調を崩し、入院した嘉代子さんは、同席できなかった。「いよいよ、はよしてもらわんと」。一人でテーブルに着いた明弘さんは、募る焦りを振り払うように、寂しげに語っていた。

 「もう、あかん。命が尽きてしまう。その前に恵子を救いたい」。亡くなる直前まで、嘉代子さんは懸命に訴え続けた。拉致問題は被害者と、その家族の当たり前の生活を奪ったまま、今も解決していない。

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