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【緯度経度】ノモンハンと文化大革命 モンゴル族悲哀の歴史 藤本欣也

戦場跡に展示された戦車(ノモンハン事件とは無関係)には中国国旗が掲げられていた=7月下旬、ノモンハン(藤本欣也撮影)
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 1935(昭和10)年、アジア最果ての地で撮影された集合写真がある。20人の男たちの背後には2本の旗が掲げられている。かつての満州国とモンゴル人民共和国の国旗だ。

 満州国の北西の外れ、満州里(現・中国内モンゴル自治区)で行われた会議に満蒙両国の代表団が参加した際の写真である。

 そのころ、満州国とモンゴル人民共和国は国境の未画定問題を抱え、対立していた。日本、ソ連(当時)がそれぞれの後ろ盾となって、国境付近の満州里で交渉が行われたのだ。

 前列中央に立つ満蒙両国の首席代表は共にモンゴル風の容姿をしている。実は満州国の首席代表も、満州族や漢族ではなくモンゴル族出身だった。

 2人にはこの後、それぞれの国でスパイ容疑などをかけられ、処刑される運命が待っている。相手側との内通を疑われたのである。

 満州里会議が成果なく幕を閉じる中、満蒙国境の草原地帯で39年に勃発したのがノモンハン事件だった。

 「同じ民族同士が戦う悲しい戦争でした」

 こう語るのは、ノモンハンに近い内モンゴル自治区アムグランで文物管理所長を務める巴図孟和(ばともうわ)さん(60)だ。モンゴル族の出身である。

 日本でノモンハン事件と呼ばれる戦闘は、日本・満州国の連合軍と、ソ連・モンゴル人民共和国の連合軍が戦った。このうち満州軍の主力は、戦場一帯を地盤とするモンゴル族の部隊で構成されていた。

 つまり、モンゴル民族同士が戦場で相まみえたことになる。

 「モンゴルの大地でモンゴル人同士が血を流した。恥ずかしいことです」

 巴図さんには、満州軍の兵士だった伯父がいる。

 「モンゴル族の部隊は空に向けて発砲する兵が多かったといいます。脱走兵もたくさんいたそうです」

 伯父は重傷を負った。ソ連兵に撃たれた、と話していたという。

 戦闘は、兵力・物資に勝るソ連側が人的損失を被りながらも優位に展開し、4カ月後に停戦した。

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