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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(23)日本官憲を代表して責を負う 平安南道「最後の知事」が残した回想録

黄海道警察部長時代の古川兼秀=昭和10年
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 人間の真価は、ギリギリの土壇場に追い込まれたときにこそ、問われるものであろう。とりわけ、国を背負って立つ政治家や高級官僚には「覚悟」が求められる。己の身をなげうって国を、国民を守り抜く覚悟があるのかどうか、だ。

 前の大戦末期には、その覚悟もないリーダーが、保身に走ったり、家族を先に逃がしたり、と醜悪な本性をさらけ出してしまった例が少なからずあった。

 一方で、“貧乏くじ”を承知で「死地」へと赴き、多数の住民を逃がした後に、凜(りん)として死んでいった最後の官選沖縄県知事、島田叡(あきら)のような人もいる。

 同時期に、日本統治時代最後の平安南道知事を務めた古川兼秀(かねひで)も、そんな覚悟を持った官僚ではなかったか。戦後、残された回想録にはソ連軍(当時)侵攻によって追い詰められた日本人を守ろうとして、あらゆる手段を繰り出した知事の苦闘が綴(つづ)られている。

 古川が平安南道知事に就任したのは終戦2カ月前の昭和20年6月。すでに敗色は濃厚であり、朝鮮北部の中心都市・平壌がある平安南道には不穏なムードが漂っていた。回想録にはこうある。《平安南道はキリスト教の本拠と言ってよい地方であって古くからその影響を受けて独立思想が激しい。しかも民族意識が強く凶暴性も秘めており大変だろうとは思った》

 実はこのとき、古川は殖産銀行理事や全羅南道知事になる可能性もあった。《もし家族の意見を聞けば、気候が良くて、内地(日本)にも近い全羅南道を希望したであろうが…、これが最後のご奉公である、とひとり深く期するところがあったのである》

 果たして、20年8月9日、ソ連軍は150万を超える大軍で、満州(現中国東北部)へ侵攻。南下を続け、24日には平壌へ先遣部隊が入ってくる。ソ連軍兵士や一部朝鮮人による非道な行為、国境からは満州の日本人避難民が雪崩を打って押し寄せ、平壌の混乱は頂点に達した。

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