映画『パシフィック・リム:アップライジング』の欠点、それは「デル・トロが足りない」ことだった - 産経ニュース

映画『パシフィック・リム:アップライジング』の欠点、それは「デル・トロが足りない」ことだった

『パシフィック・リム』の続編『パシフィック・リム:アップライジング』が公開された(日本公開は4月13日)。絶大なる人気を誇る作品の続編だが、最大の欠点は、監督が「ギレルモ・デル・トロではない」ことだった。いったいどういうことなのか。
PHOTOGRAPH COURTESY OF JASIN BOLAND/UNIVERSAL STUDIOS
2011年、ギレルモ・デル・トロ監督が『パシフィック・リム[日本語版記事]』を初めて大々的に宣伝したとき、この映画のことを「めちゃくちゃでかい怪獣が、めちゃくちゃでかいロボットと戦う映画」だと上機嫌で説明した。同監督はこの作品について、いつでもこんな風に、まるで子どものようにうれしそうに話していた。
彼は、この映画の前身とも言える日本のアニメ『ヴォルトロン』にも夢中だった。数十年前から米国で放映されていたSFアニメだ。
デル・トロがつくろうとした映画は、遊び場で繰り広げられるおもちゃの戦いを大規模にしたものといえる。自分自身のおもちゃをつくるのに必要な情熱とリソースをもつ男が、想像力でつくり上げたものだ。この情熱がなければ、これはただの『トランスフォーマー』、すなわちただ殴り合うだけの、ハートのないロボット映画になっていただろう。
他人の砂場で、他人のおもちゃで遊んでいる映画
そして、「10年後」を描く続編『パシフィック・リム:アップライジング』は、デル・トロがいなければこの映画がどういう作品になっていたかを示している。スティーヴ・S・デナイト監督によるこの続編を批判しているわけではないが(もっとひどい「ロボット破壊映画」になっていた可能性もある)、ほかの誰かの砂場で、ほかの子どものおもちゃを使って遊び回っているのは明らかだ。
怪獣とロボットのバトルは2回目でも同じように楽しいが、オリジナルと同じ曲を演奏することで満足しているように思える。デル・トロと、原作者トラヴィス・ビーチャムの技量を欠いた『アップライジング』は、結婚式のバンドがカヴァーヴァージョンで『パシフィック・リム』を演奏するようなものだ。
こんなふうになったことは、まったく興味深い。
オリジナルの『パシフィック・リム』が13年夏に公開されたとき、必ずしも批評家のお気に入りにはならなかった。映画評価サイト「ロッテン・トマト」で70パーセントを辛うじてクリアした程度だった。
いわゆる「ジャンル映画」[編註:ジャンルの分類が容易な娯楽映画]のファンたちはその魅力を高く評価したが、パーティーで映画好きを公言するような人には受け入れられなかった。『パンズ・ラビリンス』を撮ったデル・トロの才能が生かし切れていない、という議論が巻き起こったほどだ。
だが、いまになって振り返ると、特に『アップライジング』を見たあとでは、デル・トロの巧みさにどうしたって気づくはずだ。イドリス・エルバが演じるペンテコスト司令官に、「この戦いに終止符を打つのだ!」と叫ばせることはギャンブルとしか言いようがないが、これが成功したことで、このセリフはすぐにキャッチフレーズになった。そして続編を観ながらこのフレーズをシャウトアウトすることは、「デル・トロ通」であることの証になっている。
本当の意味でのオリジナルにはならない
確かに『パシフィック・リム』には深みがなかった。あのエンディングも、夏のアイオワよりも陳腐だった。正直に言うと、デル・トロがなぜ成功したのかを明確に示すのは難しい。だがそれは、『アップライジング』の欠点と並べてみたときに明らかになる。言ってみれば、独創性のようなものだ。
人型ロボット「イェーガー」で、パイロットの神経とマシンを接続する「ドリフト」や、パイロット2人が同調する「ブレイン・ハンドシェイク」といったコンセプトは、最初はばかげているように思えたが、物語がかっこよかったから許された。だが、続編ではどうかというと、なかなか難しい。
『パシフィック・リム』では、ロン・パールマンを極悪人として描くため、怪獣の臓器を売りさばく闇商人として登場させていた。一方、『アップライジング』では、10代のアマーラ・ナマニ(ケイリー・スピーニー)が、バラバラになったイェーガーをくすねて組み立てるヒーロー候補として描かれている。
だが、いくらスピーニーにカリスマ性があるとはいえ、同じインパクトは望めない(それに、これって、『スターウォーズ/フォースの覚醒』のレイの登場とそっくりではないのか?)。同じことが、『アップライジング』で描かれている「怪獣の血」の奇妙な科学的特性や、「世界の終わりに団結することの重要性」についても言える(前作の「戦いに終止符を打つ!」をただ強調するように感じられる表現だ)。
続編は決して、本当の意味でのオリジナルにはなることはない。オリジナルと矛盾しないことが重要だが、続編をつくる限りは、その「伝説」をさらに進めるという努力だけは必要だ。
『アップライジング』で「新しいこと」だと確信できたのは、怪獣の脳に侵入すると、ハイになりすぎて怪獣の脳と結婚したくなるらしいということだけだ(詳しくは聞かないでほしい)。また、『アップライジング』の壮大な最終シーンでは、そこにいる誰もが黙って巨大ロボットを巨大怪獣と戦わせているのだが、それが日中に広範囲で行われるため、あらゆるものがギラギラと輝きすぎている。
デル・トロの『パシフィック・リム』では、ほとんどが夜間に繰り広げられており、すべての戦いにネオン色に輝く『ブレードランナー』的効果を与えるという美的選択が行われていた。『アップライジング』はその反対で、細かい部分も必要以上に見せるという美的選択を行っている。
日光の効果は殺菌だけではない。
日光の下で見ると、イェーガーはマイケル・ベイ監督映画のトランスフォーマーのように見えるし、怪獣の恐ろしさも半減する(映画の最後に登場する「最大の敵」の、地獄のように青い口も、ジョージア・オキーフの絵程度にしか見えない)。
浮き彫りになったデル・トロの「特別さ」
だからと言って、『アップライジング』には欠点ばかりでいいところがひとつもない、というわけではない。戦闘シーンはとにかく楽しい。前作でエルバが演じたペントコスト司令官の息子ジェイクを演じるジョン・ボイエガは、『スターウォーズ』ファンの心をつかんだカリスマ性をここでも発揮している。
性差別をチェックするテストであるベクデル・テストにもパスしており、B級SF映画ではまだ非常に珍しいことだ。チャーリー・デイもいつも通り面白い。
だが、この映画にはハートもソウルも感じられない。それこそ、デル・トロが『パシフィック・リム』にもたらしたものだった。デル・トロは『パシフィック・リム』を「これがうまくいくなんて信じられるか?」といった感じで満たしている。だが『アップライジング』は「ええそうです。うまくいくように思い切り頑張りました」といった感じになっている。
デル・トロはいつだって、非現実的な状況のなかに喜びと感情の中心を見つける達人だ。信じられないほど非現実的な状況でもそうなのだ。何しろ、半魚人とのセックスを描いた映画『シェイプ・オブ・ウォーター』[日本語版記事]で、アカデミー賞を4部門も獲得したのだから。
彼の才能は特別だ。彼は、自分が想像でつくりあげた生き物に、観客たちが没入できる作品世界を提供したいと思っている。だが、『パシフィック・リム:アップライジング』が観客に観せているのは、巨大怪獣と巨大ロボット、ただそれだけだ。