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【ビブリオエッセー】若き日の父が目の前に 「地下鉄(メトロ)に乗って」浅田次郎(講談社文庫)

 冒頭のページに「すべての地下鉄通勤者に捧ぐ」という短い献辞が一行。地下鉄が運ぶ人々の出会いと別れ、喜びや悲しみが余白に凝縮されている。

 クラス会の帰り、小沼真次は地下鉄永田町駅のホームで電車の到着を待っていた。事故で遅れているのを知ると別ルートで帰ろうと長い地下道を歩き、階段を上がる。と、ひと昔前の懐かしい風景が広がっていた。東京五輪の前景気に沸く30年前の東京だった。

 真次は戦後の闇市から成り上がった実業家の父、小沼佐吉の次男。ワンマンで横暴な父は家庭を顧みず、反発した長男の昭一は大学受験を目前に地下鉄に飛び込んだ。この事件を機に一家は崩壊。真次と母は家を出て、後妻が入り、家業は三男の圭三に託される。母は地下鉄を忌避して、以後ずっと乗れない。

 今は二人の親となった真次は営業マンで同僚のみち子と不倫している。容姿や言行が父と酷似していることを気にしていた。その間、物語は何度も現在と過去を行き来する。戦後の闇市、戦時中、昭和の初めとさかのぼり、そこにいつも若き日の父がいた。

 父の出自や過去をひとつずつ知ってゆく真次は、兄を救おうと手を差し伸べるが未来を変えることはできない。現在の父は終末期の病床にある。そして不思議なことに、みち子もまた同じタイムトリップを経験していた。

 地下鉄の通路が現在と過去を結ぶ。不撓の父親像を描くこの小説と同じように、著者は『おもかげ』で時を超えて優しい母親像に迫った。「悲しみも苦しみも鋼鉄のボディに押しとどめて、地下鉄は走る。忍耐の鎧を身にまとった寡黙な戦士のように、地下鉄は走る」。献辞に響き合う一節が、すべての通勤者を泣かせる。

堺市南区 日下部功 55

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