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【幻の祭典】(下)聖火の舞台、3度奪われ 山内リエ

平成2年に中京女子大(当時)を訪問した山内リエ(至学館大提供)
平成2年に中京女子大(当時)を訪問した山内リエ(至学館大提供)
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 日本が五輪に復帰するのは、さらに4年後の52年ヘルシンキ大会。山内が聖火の下で跳躍する機会は、ついに訪れなかった。

 現役時代、日が暮れるまで厳しい練習に打ち込んだ山内は平成2年、母校でこんな言葉を残している。

 「『努力は天才である』という標語をモットーに生きてきた。『努力』という言葉は、いつの時代にあっても不易の指標だ」

□   □

 先の大戦で犠牲になった日本人310万人のうち、戦死や空襲、原爆などで死亡した「オリンピアン」は38人。1976年モントリオール五輪で女子走り高跳びに出場した広島市立大名誉教授、曽根幹子(67)の調査によれば、38人のうち36年ベルリン大会の出場者が最多の23人を占め、40年東京大会への出場が期待された20代の選手も多かった。

 幻の東京五輪から80年。今夏予定されていた“3度目”の祭典は、新型コロナウイルスの感染拡大で延期となった。他の大会も中止が相次ぎ、十分な練習もままならない状況が続く。

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 それでも、戦火に追われるように競技から離れざるを得なかった先人たちとは事情は大きく異なる。曽根はいう。

 「厳しい環境ではあるが、人生を懸けてきた五輪を諦めないでほしい。1940年を目指した選手たちが、死を意識しながらも最後まで希望を捨てなかったように」(敬称略)

=おわり

 この連載は鈴木俊輔が担当しました。

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