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【幻の祭典】(下)聖火の舞台、3度奪われ 山内リエ

中京高等女学校時代の山内リエ(至学館大提供)
中京高等女学校時代の山内リエ(至学館大提供)
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 1936年ベルリン五輪の閉幕から3カ月後。4年後への期待と戦争の足音が交錯する中、女子走り高跳びで快記録が生まれた。ベルリンの優勝記録まで5センチに迫る日本新。打ち立てたのは、まだあどけなさが残る14歳の山内リエ(1922~2000年)だった。

 にわかに注目を集めた新星は、故郷の広島を離れ、女子陸上でオリンピアンを輩出していた中京高等女学校(現・至学館大)に進んだ。現在は女子レスリングの名門として知られるが、当時は陸上の黄金期。優れた指導者を慕って多くの選手が集まり、国内大会では上位入賞の常連校だった。

 記録をさらに伸ばしていった山内は昭和14年、走り幅跳びと走り高跳びで日本選手権を制覇する。だが、翌年開かれるはずだった五輪は東京の開催権が返上され、大会自体も中止となっていた。

 「当時の女子陸上界のスター選手。東京五輪が開催されればメダルは間違いなかった」。至学館大の歴史に詳しい同大助教、越智久美子(43)は話す。

 この年、次々と記録を塗り替え、選手としてピークを迎えていた山内。戦後、自著「葦のうた」でこう振り返っている。

 《オリムピック東京大会も返上と決まり、青春の憂悶(ゆうもん)やるせない一年でもあつた》

 その後も強さをみせたが、1944年の五輪も中止。戦時下の国内では、大会はほとんど開かれなくなっていた。

 終戦を迎えた夜。広島・呉の実家に戻っていた山内は、カビが生えたスパイクを無心で磨いていた。

□   □

 戦後、競技に復帰すると、その輝きを取り戻す。昭和21年、再開した日本選手権で、走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げの個人種目3冠を達成。練習環境どころか衣食住すら満足に整わなかった時代に、走り幅跳びで日本人女子として初めて6メートルの大台を突破するなど、第一線で活躍を続けた。

 しかし、歴史はどこまでも残酷だった。1948(昭和23)年にロンドンで再開した五輪に、敗戦国・日本の参加は認められなかった。同年の日本選手権。走り幅跳びで優勝した山内の記録は、ロンドン五輪の優勝記録を上回っていた。

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