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【勇気の系譜】杉原千畝さん 命のビザ発給 貫いた信念

 《大部分がヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼(め)に映った》

 杉原は代表5人を領事館に招き入れ、じっと耳を傾けた。着の身着のままで故郷を追われてきたユダヤ人たちは、目的国も、所持金の有無さえ定かではない。発給枚数は数百枚、数千枚となることが予想された。領事代理の裁量を明らかに逸脱していた。

 ビザを受けた一人、イスラエル・ヨセフ・ジムリングの三女、ハーヴァ・アペル(66)は語る。

 想像もできない恐ろしい運命が迫っていたユダヤ人を、誰もが無視した。彼も無視することだってできたし、そうすれば問題にはならなかった

 判断を仰いだ外務省の返答は芳しくなかった。ビザの発給は、一介の外交官が日本の同盟国、ドイツに公然と抗(あらが)うことを意味する。自身や家族に危害が及ぶ可能性さえあった。

 カウナスに同行していた杉原の長男、弘樹を父に持つ杉原まどか(53)は思いをはせる。

 本人は記憶にないそうですが、3歳だった父が「パパが助けてあげるんだよね」と言ったそうです。祖父はクリスチャン。「助けないと神に背く」という思いもあったのでしょう

 《苦慮の揚げ句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得た》

 7月29日、ビザの発給が始まった。すでにリトアニアがソ連領となり、領事館の閉鎖が決まっていた。

 寝食を犠牲にして机に向かった。万年筆は折れ、指にはまめができた。その手はカウナスを離れる瞬間まで止まることはなかった。

 「ちうね」と発音しづらかったユダヤ人たちの耳、心には、音読みにした「センポ・スギハラ」の名が刻まれていった。

□  □  □

 杉原は後に赴任したチェコスロバキア(当時)のプラハでも、ユダヤ人にビザを発給している。人道主義、博愛精神。言葉にするのは簡単だが、実行に移すのは容易ではない。

 事実、杉原には過酷な戦後が待ち受けていた。欧州各地を転々とし、戦後の混乱をくぐりぬけて帰国すると、外務省から退職を通告される。人員整理の一環とされたが、外務省に背いてのビザ発給が影響していたのは明白だった。

 国の命令に背いた行動が外交官として問題であること、自分は後々、大変な人生になるかもしれないこと、祖父はすべてを覚悟していたと思います

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