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「稲むらの火」の安政南海地震、堤防工事に震災がれき活用 和歌山

「広八幡社内ニ人民大程アツマリキ」(右上)や「破壊家屋ヲステル場所ヲ兼ネテ人民ノ仕事ヲ多クセン為メニ大事業」(右から5~6行目)などと記されている
「広八幡社内ニ人民大程アツマリキ」(右上)や「破壊家屋ヲステル場所ヲ兼ネテ人民ノ仕事ヲ多クセン為メニ大事業」(右から5~6行目)などと記されている
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 江戸時代末の1854(安政元)年の安政南海地震で、津波から村人を守ろうとした「稲むらの火」で知られる実業家・浜口梧(ご)陵(りょう)の震災復興事業について記した古文書が、広川町の民家から見つかった。梧陵が津波対策で築いた「広村堤防」に関し、「堤防の敷地は、津波で破壊された家屋の廃棄場所を兼ねた」と記載。震災がれきを堤防の盛り土として利用したという。平成23年の東日本大震災でも宮城県などで震災がれきを堤防に活用しており、梧陵が150年以上前にこうした手法を取り入れたことが浮かび上がった。 (小畑三秋)

 今年は梧陵生誕200年。古文書は、梧陵(1820~85年)と同時代の地元の実業家・渋谷伝八(1840~1910年)が明治42年に「夏の夜かたり」と題して執筆。巻頭には「広村(現広川町)郷土史」とあり、地域の幕末から明治期の歴史がつづられていた。

 安政南海地震の津波については、「嘉永七年大海嘯(かいしょう)」と記載。嘉永7年は1854年にあたり、この年に安政と改元されたため安政南海地震といわれる。大海嘯は大津波を意味し、住民の避難については「広八幡社内ニ人民大程アツマリキ、実ニ非常ナル混雑ナリキ」と記述。梧陵が稲むら(稲の束)を燃やして誘導した広八幡神社に、大勢避難していたことが分かる。

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