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【歴史シアター】石田三成、佐和山城を大改修 「関ケ原」見据え防衛強化 滋賀・彦根市

 井伊家文書「佐和山城絵図」は、廃城から約200年後の文政11(1828)年に三成時代の城を描いた絵図だが、それによると、山頂に本丸、尾根上に西の丸など5カ所の曲輪(くるわ)を配している。山の東側、平坦(へいたん)部分に侍屋敷群があり、そのすぐ外側に内堀が、その東側、東山道に沿うように外堀が延びており、内堀と外堀に挟まれた部分が市街地(城下町)の中心だった。

■内堀20㍍拡幅 

 これまでの発掘調査では、東山道側に開いていた城正面の大手口の推定地あたりから、内堀の遺構を検出。絵図に描かれた位置と一致した。素掘りで石垣の補強などはなく、内堀に沿って築かれた土塁(高さ約2・3メートル)も確認した。

 さらに、内堀はある時期、拡幅工事が行われていたことも判明。外側に広がる市街地の一部を削り取って、約20メートル幅を広げていたという。市街地部分から出土した陶器の年代観から、拡幅工事は、三成の城主時代に行われた可能性が高い。

佐和山城跡近くで見つかった橋の土台部分=昨年9月
佐和山城跡近くで見つかった橋の土台部分=昨年9月
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 また、市街地部分の一角からは上部が削られた橋台(台座)が確認されている。三成の時代に市街地の排水溝にかかっていた橋を取り壊した痕跡とみられ、城下町の構成が大きく変化したことを示している。

 三成は慶長3(1598)年に豊臣秀吉が病没したことを受けて、実権を握ろうとした徳川家康と対立。毛利輝元を盟主として挙兵(西軍)し、同5年、関ケ原で徳川家康軍(東軍)と激突したが、敗北。斬首されている。

 調査にかかわってきた滋賀県文化スポーツ部の木戸雅寿参事員は「内堀の拡幅は、当初のものを倍ぐらいの大きさにしている。城下町の市街地部分を田んぼ一枚分程度は削り取って、幅を広げている。三成時代の工事。佐和山は交通の要衝で、(東国から)京都に向かうさいの重要な場所になる。関ケ原の戦いということを見据えて、急遽(きゅうきょ)城の内堀を拡幅したり、工事で出た土砂を使って土塁を造るなど、防衛強化を図ったと考えられます。そのさいには、城下町のことまで考えていなかったように思えます」と話している。

佐和山城本丸跡から、彦根城をのぞむ。城造りには部材が転用された=滋賀県彦根市
佐和山城本丸跡から、彦根城をのぞむ。城造りには部材が転用された=滋賀県彦根市
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 佐和山城は関ケ原の合戦のながれで、徳川軍の攻撃を受けて落城。その後、家康の重臣、井伊直政が入城した。直政は2年後に、佐和山城で亡くなり、跡を継いだ息子の直継は慶長11(1606)年、わずか1・5キロ程度しか離れていない場所に築いた彦根城に移った。佐和山城は解体されて、石材や部材の一部が彦根築城に使われ、そのほかは徹底して破壊されている。

 

 【メモ】石田三成

佐和山ハイキングコース沿いに設置された石田三成の銅像
佐和山ハイキングコース沿いに設置された石田三成の銅像
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 永禄3(1560)年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)で生まれる。羽柴(豊臣)秀吉が長浜城主だったころ、近侍として仕えるようになり、本能寺の変後に秀吉が明智光秀を討った山崎合戦などに従軍。秀吉の関白就任とともに、諸大夫として従五位下、治部少輔(ちぶしょうゆう)に叙任される。太閤検地など行政面で能力を発揮し、五奉行に任じられた。文禄4(1595)年には、佐和山19万4千石の城主となり、さらに秀吉直轄領7万石の代官となった。秀吉の死後、徳川家康と対立。慶長5(1600)年、関ケ原で、家康ら東軍と戦ったものの敗北。捕らえられて同年、京都・六条河原で処刑された。 

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