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【歴史シアター】石田三成、佐和山城を大改修 「関ケ原」見据え防衛強化 滋賀・彦根市

佐和山城の本丸跡=滋賀県彦根市
佐和山城の本丸跡=滋賀県彦根市
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 天下分け目といわれる関ケ原の戦い(1600年)で敗れた戦国武将、石田三成(1560-1600年)の居城だった佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)。近年の発掘調査で、城を取り巻くように設けられた内堀があり、三成の時代にそれを大幅に拡幅していた痕跡が確認されている。城を守るために設ける堀だが、城下の市街地部分を破壊してまで、20メートル程度幅を広げる工事を行っていた、という。堀の内側には土塁をめぐらして、城下町を造り替える作業も行っており、徳川家康との戦いを前にした緊迫感が、ひしひしと伝わってくるようだ。 

(編集委員 上坂徹)

■水陸交通の要衝 

 佐和山城は鎌倉時代初期、近江国守護佐々木定綱(さだつな)の六男、時綱(ときつな)が佐和山(標高232・5メートル)の麓に館を構えたことに始まると伝えられる。東側に東山道(中山道)が走り、北国街道との結節点にも近い。西側には琵琶湖が広がっており、水陸交通の要衝であるとともに、近江を南北に分ける境に位置する。佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城をめぐって攻防が繰り返された。その後、京極氏に代わった浅井氏と六角氏が戦う中で、佐和山城には、六角氏の家臣・小川氏が城主として入り、その後、浅井氏の家臣・磯野員昌(かずまさ)が城主をつとめた。

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 浅井氏と対立した織田信長がこれを攻めて、元亀2(1571)年に、員昌が降伏。代わって、織田氏家臣の丹羽長秀が入城した。天正10(1582)年の本能寺の変の後、豊臣政権下で堀秀政、堀尾吉晴が城主を務め、文禄4年(1595年)に秀吉から佐和山19万4千石の城主に任じられた三成が入城した。

 三成は荒廃していた佐和山城を大改修し、山頂に五層の天守を持つ城郭を築き、城下町の整備も行った、といわれる。

(次ページは)内堀20㍍拡幅…

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