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【一聞百見】今だから話せる「勇者の三番」広島トレード秘話 元プロ野球阪急ブレーブス選手・加藤秀司さん

 オープン戦が始まると本当に「三番・一塁手」で起用された。だが、打てない。4試合で12打数1安打。すると周囲の声が「加藤にはまだ無理」に変わった。新聞記事も「本当にこんな男に三番を任せるのか」とたたきはじめた。それでも西本監督は代えようとはしなかった。「オレ自身が無理やと一番思ってるのに、なんでこんなにボロクソに言われなあかんねん。それで…」。

 3月10日、粉雪が舞う京都・西京極球場、気温5度。広島戦の試合前、加藤はグラウンドで西本監督に「(三番から)外してください」と訴えた。「“あかん、代えん”とそれだけや。説明もなし。もう、どうなっても知らんで! という気になった」。加藤は開き直った。するとどうだ。一回、無死一、三塁で回ってきた第1打席、広島・外木場(義郎投手)の外角ストレートを左翼へ3ラン。そして八回には右翼へこの日、2本目のダメ押しのホームランをたたき込んだ。「監督も意地になってオレを使ってたんやね。ホームラン打ってベンチに戻ってきたらオレの手を握って“よう打った。よう打った”と喜んでくれたよ」。“勇者の三番”加藤誕生の瞬間である。

 --もし、あのとき西本監督が「三番」を外していたら?

 「2軍に戻って、その年にクビになって…。居酒屋のおっさんになってたやろな」。秀さんが楽しそうに笑った。

「阪急の新三番誕生」を1面で報じるサンケイスポーツ=昭和46年3月11日
「阪急の新三番誕生」を1面で報じるサンケイスポーツ=昭和46年3月11日
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 【こぼれ話(1) 野球部クビ宣言からプロへ】

 昭和41年、大阪のPL学園高校3年生だった加藤は東映からのドラフト4位指名を拒否し社会人野球の「松下電器」に進んだ。「大会社の松下にお前が入れるなんて! とおふくろが喜んでなぁ。当時は生活の不安定なプロより、社会人野球へ行く人間の方が多かったんよ」。42年の南海(10位)も拒否。だが、43年のドラフト前に-。「松下から『プロへ行かないのなら、あと1年で野球部をやめて仕事に専念しろ。でないと同期の連中と大きな差がつくぞ』といわれたんや。オレは野球を続けたかった」。加藤は阪急の2位指名を受けたのである。

■口は災いのもと?放浪の始まり

 入団3年目の昭和46年、ひょんなことから「三番・一塁手」のレギュラーに定着した加藤秀司は「野球が面白くてしようがなかった」との言葉通り、面白いように打ちまくった。46年に打率・321、25本塁打、92打点をマークすると、48年には打率・337で初の首位打者を獲得。50年には97打点で打点王。54年には打率・364、104打点の2冠王に輝いた。阪急在籍14年で首位打者2回、打点王3回、最優秀選手(MVP)1回、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞3回。まさにリーグを代表する「三番打者」である。

 そんな加藤が57年オフ、突然、水谷実雄との交換トレードで広島へ放出された。たしかに、その年の加藤は打率・235、21本塁打、84打点と不本意な成績に終わっていた。だが、出された原因はそれだけではなかった。「口は災いのもと。オレが言わんでもええ余計な一言を監督に言うてしもたんやな」と加藤は回想した。

(次ページは)上田監督「大抗議」の末…

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