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銀閣寺の当初予定地は1・2キロ南だった 大阪大谷大が古文書解明     

銀閣寺の当初の計画地を特定する記述が確認された古文書(名古屋市博物館提供)
銀閣寺の当初の計画地を特定する記述が確認された古文書(名古屋市博物館提供)
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 室町幕府第8代将軍、足利義政が将軍職を退いた後に過ごす場として築いた銀閣寺(慈照寺、京都市左京区)の当初の建設予定地が、現在地から約1・2キロ南だったことを古文書で確認したと、大阪大谷大が23日発表した。永観堂禅林寺(同区)など主要寺院が立ち並ぶ区域とみられ、義政が応仁の乱の直前まで、意欲的に隠居政治を行おうとしていた意図が読み取れるという。

 これまで、銀閣寺の当初の建設予定地は南禅寺(同区)敷地内とみられていたが、正確な場所は不明だった。

 古文書は、個人収集家から寄贈を受けた名古屋市博物館が所蔵していたもので、同大の馬部(ばべ)隆弘准教授が別の資料を見るために博物館を訪れた際、古文書の記述に気づいたという。

 記されていた場所は、南禅寺の北500メートルにある、永観堂など寺院が立ち並ぶ一角。当時、主要寺院は権力を持っており、これらと肩を並べることで、政治から引退するわけではないとの義政の心境がうかがえるという。

 銀閣寺は、義政が隠居政治を行う場として、3代将軍、義満が築いた金閣寺にならい建設が計画された。しかし、戦国時代への転換点となった応仁の乱が勃発して計画は頓挫。その後、義政は息子の9代義尚(よしひさ)に将軍職を譲り、建設場所を現在地に変更した。

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 現在の銀閣寺は南禅寺の北約1・7キロ、永観堂などの寺院群からも遠い位置にある。馬部准教授は「立地の変更からは、応仁の乱を機に政治から逃避しようとした義政の意識の変化がうかがえる」としている。(有年由貴子)

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