PR

産経WEST 産経WEST

【教科書が教えない 幻の堺幕府】「海船政所」は三好軍勢のベースキャンプ?

 阿波の軍勢は1万人近かったといわれ、これだけの数の兵士を収容するスペースは当時の環濠中心部にはない。吉田さんは海船政所の推定位置が環濠北端あたりであることに着目した。

 「城下町では武家地と町人地は分かれています。義維の居所・引接寺(いんじょうじ)があって多くの町衆も住んでいる中心部に、荒くれ者集団を混在させるわけにはいかないでしょう。中心部から外れた環濠の北端なら土地も広くとれるし、北側から敵が攻め込んできたときの防衛にも有利です」

錦西コミュニティー広場前にある「此附近三好氏海舩館址」(海船政所のこと)の石碑  (大正8年、大阪府建立)
錦西コミュニティー広場前にある「此附近三好氏海舩館址」(海船政所のこと)の石碑  (大正8年、大阪府建立)
その他の写真を見る(4/4枚)

 野営地は環濠の外側の広大な敷地に設けられたとみられ、義維ら堺幕府の重鎮や役人、町衆らと、兵士が明確に分離されたはずだという。

 「さまざまな条件を検討すると、海船政所は政庁というよりは軍事拠点だったとしか考えられません」と吉田さん。軍司令官を務める一方、政治的にも義維と晴元を補佐していた元長が、軍事拠点である海船政所と引接寺や顕本寺がある幕府中枢地を行き来していた姿が目に浮かびそうだ。

 中枢部は環濠に囲まれ、軍のベースキャンプも備えていた堺幕府。次回は義維、晴元、元長らがなぜ堺に拠点を置いたか、さまざまな事情に触れたい。   =続く

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ