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【お城探偵】明智光秀が築いた亀山城 要衝ゆえに消えた痕跡 千田嘉博

亀山城北側に残る水堀(筆者撮影)
亀山城北側に残る水堀(筆者撮影)
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 1582(天正10)年、毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は信長に出陣を要請。光秀は信長に先立って中国地方へ出発することになった。同年6月1日、光秀は亀山城をたち、老ノ坂(おいのさか)を越えて2日早朝、突如京都市中にある本能寺を襲撃(本能寺の変)。光秀は計画どおり、信長を討った。

 しかし、毛利氏と和睦した秀吉が信じられない速さで駆けつけ、山崎の戦いで光秀軍を破った。13日深夜、光秀は落ち武者狩りにあって、二度と亀山城に戻ることはできなかった。

 一方で亀山城は、光秀が見立てたとおり、近世に丹波の拠点として受け継がれ、城下町は発展。豊臣時代は秀吉の一族らが城主を務めた。江戸時代に入ると、徳川家康は譜代大名の岡部長盛(ながもり)を亀山城主とし、西国の諸大名に石垣や堀を築かせる天下普請で城を強化した。1610(慶長15)年頃には、外観・内部が5重5階の天守も完成した。

 つまり、亀山城は信長に謀反した光秀の心情を考える重要な手がかりになる城なのだが、要衝であるがゆえに光秀以降も改修が続いて、残念ながら現在公開されている範囲には、光秀を物語る城の痕跡が見当たらない。

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