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【一聞百見】あの桂枝雀が見いだし立川談志に助けられた…サクセス物語 落語作家・小佐田定雄さん(67)

新作「廓噺山名屋浦里」に主演した中村勘九郎(左)と中村七之助 =平成28(2016)年(加藤孝撮影)
新作「廓噺山名屋浦里」に主演した中村勘九郎(左)と中村七之助 =平成28(2016)年(加藤孝撮影)
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■タモリ→あかね夫人→鶴瓶→小佐田→勘九郎

 自分を見いだしてくれた「師」であり「友」だった桂枝雀を失った小佐田だが、一方で多くの「人」を得ていた。その一人が“人生の伴侶”となった落語作家のくまざわあかねである。関学大「古典芸能研究部」の後輩。平成6(1994)年に小佐田に入門したお弟子さん。15年に結婚。年の差19歳。あかね夫人はいまでも小佐田のことを「先生」と呼んでいる。

 そんな2人が大きな大きな作品を作り上げた。平成28年8月に歌舞伎座の納涼公演で上演された『廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)』である。舞台は江戸時代の遊郭吉原。花魁(おいらん)・浦里と地方から江戸勤番で出てきた若い武士・宗十郎との色恋ではない友情の物語。演じたのは中村勘九郎と中村七之助。実はこのお話、タレントのタモリがNHKの番組「ブラタモリ」で東京・吉原を訪れた際に聞き込んだ実話だった。それを24年、笑福亭鶴瓶に「落語にしたら」と持ちかけたのがことの始まり。鶴瓶は「ボクはよう書かんから、書く人を紹介するわ」と小佐田を指名した。

 そば屋の2階で、弟子のくまざわと一緒にタモリから話を聞いた小佐田は「正直、笑いどころが少なく、落語にするには難しい」と思ったという。すると横にいたくまざわが「先生、わたしが書いてもいいですか」と申し出た。そうして出来上がった新作落語が『山名屋浦里』だった。

 鶴瓶は1年間、江戸言葉と花魁言葉を勉強し、27年1月に初めて高座にかけた。後日、この噺を聞いていた中村勘九郎が、すぐに「これは歌舞伎になる。演じたい」と鶴瓶に連絡した。小佐田は「松竹の作家さんが歌舞伎に書き直す」と思っていた。ところが、ある日、鶴瓶の高座を聞いていると、摩訶(まか)不思議な現象が起こった。「不思議でした。鶴瓶師匠のあの顔が、七之助さんの顔にスーッと変わってみえたんです。できた!と思いました」。すぐさま小佐田は鶴瓶に「わたしが書きます」と宣言。5日で歌舞伎版『廓噺山名屋浦里』を書き上げたのである。

 「昔、米朝師匠に言われました。“大阪の笑いをやるんやったら、落語だけみてたらアカン。歌舞伎や文楽、漫才…と、いろんなもんを見なさい”と。わたしの今があるのは、そのおかげです。天職? ここまできたら、そう言えまんな」。枝雀に10枚の原稿用紙を送って、42年がたっていた。

落語界のおしどり夫婦、小佐田定雄・くまざわあかね夫妻 =大阪市北区の繁昌亭(沢野貴信撮影)
落語界のおしどり夫婦、小佐田定雄・くまざわあかね夫妻 =大阪市北区の繁昌亭(沢野貴信撮影)
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≪取材余噺(3)≫

 取材の途中、筆者は学生時代(大阪芸大)に、秋田実先生に師事し“漫才作家”を志した時期があったことを告白した。「秋田さん、一度でええから話をしたかったなぁ。わたし昭和63年に上方お笑い大賞の“秋田実賞”を頂いてるのに、先生と面識がないんですわ。どんな先生でした?」。小柄で話が面白くて、学校の帰りに大阪・阿倍野の近鉄百貨店の大食堂に連れて行かれ「わたし、ここの“ハヤシライス”が大好きやねん」と、ごちそうになったことを話すと、突然、小佐田はポーンと手をたたいてこう言った。「それ、きっと先生の洒落(しゃれ)ですわ」「洒落ですか?」「ほれ、先生の本名」「ええと、たしか本名・林…林大好き…ハヤシライスキ。ほんまや!」   (敬称略)

     ◇

【プロフィル】小佐田定雄(おさだ・さだお) 本名・中平定雄。昭和27年生まれ、大阪市西成区出身。関西学院大を卒業後、サラリーマンをしながら52年『幽霊の辻』でデビュー。桂枝雀や桂米朝一門の新作や改作落語を手がける。62年、サラリーマンを辞めて専業作家に。

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