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【一聞百見】あの桂枝雀が見いだし立川談志に助けられた…サクセス物語 落語作家・小佐田定雄さん(67)

笑顔の優しい小佐田定雄 =大阪市北区のサンケイホールブリーゼ(山田哲司撮影)
笑顔の優しい小佐田定雄 =大阪市北区のサンケイホールブリーゼ(山田哲司撮影)
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■談志の「元気か!」に救われて

 サクセスストーリーの続き。小佐田はサラリーマンをしながら、落語を書くことになった。保険会社の仕事が終わると寄席に行き、桂枝雀と小佐田は夢中になって“笑い”について語り合った。話し始めると周りが見えなくなった。こんなことがあった。

 昭和60(1985)年11月2日、枝雀と小佐田はタクシーの中でいつものように話し込んでいた。大阪・梅田の交差点にさしかかった。陸橋の上に大勢の人、人、人。「何かお祭りだっか?」「分かりません。何かおましたんやろ」。2人はまた落語談議に集中した。大阪・吹田市の枝雀宅に着き、奥さんに何の騒ぎ?と尋ねると…。「世間のことを知らんのにもほどがあります!」と、2人は叱られた。「タイガースが日本一になった日やったんですわ」

 出会ってから10年後の62年、小佐田はサラリーマンを辞め、専業作家となった。決心を告げると枝雀はニッコリ笑ってこう言った。「アンタが十数年もサラリーマンしてたんが間違いです」。2人の関係はずっと続くと思っていた。だが、平成11年3月、枝雀は自ら命を絶とうとして病院に運ばれた。そして4月19日、意識が戻らないまま帰らぬ人となった。「周りがなんも見えんようになりました。枝雀師匠のおらん落語界なんて、もうええわ。作家なんか辞めようと…」

 ある寄席の楽屋、暗い顔の小佐田に「元気か!」と声がかかった。当時、枝雀と人気で東西を二分していた立川談志だった。「飛びっきりの笑顔でした。何も言いません。ただ、元気か! だけ。けど、わたしには“落語家は枝雀だけじゃねぇぜ”と言ってくれたように聞こえたんです。その瞬間ですわ、みんなの顔が見えたんです。ざこばさん、南光さん、雀三郎さん…」。小佐田は“枝雀の死”の悲しみから立ち直った。そして、その日から枝雀一門、そして米朝一門の作家へと独り立ちしたのである。

≪取材余噺(2)≫

 桂枝雀(昭和14年生まれ)と立川談志(同11年生まれ)。3歳違いの2人は50年代を代表する東西の人気落語家。小佐田に言わせると「全部自分が悪いと思い込むのが枝雀師匠で、全部他人が悪いと思ってるのが談志師匠」という。言い得て妙! 2人はそれぞれの力を認めているくせに、それを口にするのが嫌だった。談志は枝雀が好きで、パーティーで一緒になると、ニコニコ顔で近づいてくる。すると、枝雀は気配を感じてスーッと逃げる。小佐田が理由を聞くと「あの人、理屈っぽいでっしゃろ」。よういうわーの世界である。そんな枝雀が亡くなったとき、談志は小佐田にこう言った。「落語については枝雀の言ってることが正しかったな」。「師匠、枝雀師匠が生きてるときに言うてあげてほしかったです」。そして、ポツリ。「オレは枝雀を助けてやれなかったか?」。小佐田にとって忘れられない言葉になった。

(次ページ)タモリ→夫人→鶴瓶…そして勘九郎

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