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【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(5)西郷と勝 慶喜は激怒したのか

 一方、勝とは別ルートで慶喜助命を探っていた天台僧、覚王院義観らはその調停が不調となるや主戦論を展開していた。彼らは彰義隊の精神的支柱となり、上野戦争へと発展してゆく。

 4月4日、東海道先鋒総督で公家の橋本実梁(さねやな)が江戸城に入城し、「慶喜は死罪を一等減じ、水戸で謹慎」「兵器・軍艦はすべて新政府軍に引き渡し、後日相応分を返還する」「江戸城は尾張藩預かり」などとする最終条件を提示。これに沿って1週間後に江戸城が明け渡されることになった。

 「小臣、8日より東西を奔走、夜間は四方を巡回し、その動静をうかがう。(中略)もしかりそめにも不測の事態が起きたときには、官軍に駆け入り、その過ちを一身に受けようと志すも、幸いにして無事終了したのは天命なるか」

 江戸無血開城が成就した4月11日の「勝日記」の記述である。その前夜、開城に合わせて謹慎先の寛永寺(東京・上野)を発って水戸に向かう徳川慶喜から勝は刀を拝領し、「この度の尽力、深く感じ入る。わが意は貫徹し、徳川宗家は存続、余の備前藩行きも消滅した。なお厚き尽力を頼む」との言葉を授けられた。「覚えず背に汗。感泣申すところを知らず」。勝はそう続けている。

 ところが、である。勝が明治11(1878)年に著した「断腸之記」にはこのときの主従の対面が記されているのだが、拝刀の栄誉や勝の「感泣」の話はまったくない。それどころか、慶喜は勝の江戸開城の段取りが「はなはだ粗暴で大胆である」と非難し、「余の心意は実現することなくついえるのか」と嘆き、怒りの血涙を雨のように流すのである。

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