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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第3部】(11)「信念曲げない夫についていくだけ」倒れざる者支え続けた糟糠の妻

紀久子夫人(左)と記念写真に納まる世耕弘一氏(近畿大学提供)
紀久子夫人(左)と記念写真に納まる世耕弘一氏(近畿大学提供)
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 政治家、教育者として活躍した近畿大学創設者で総長だった世耕弘一の人生をたどってきた連載「倒れざる者」だが、ここで弘一を陰で支え続けた糟糠(そうこう)の妻、紀久子に触れておきたい。

 近大の記録によると、弘一が日本大学に在学中の大正10年2月、28歳で阿久津紀久子と結婚し、大学卒業直前の12年1月に長男の政隆(後に近畿大学総長・理事長、参議院議員)が誕生したことになっているが、実は少し込み入った事情がある。

 政隆の長女、森元つる子が親類から聞いた話によると、紀久子は、弘一が学生時代に下宿していた大家の妻で、3人の子供がいた。10年ごろ、ドメスティックバイオレンス(DV)のような耐え難いことがあって家出し、親類宅に避難していた。

 それを機に弘一も下宿を引き払ったが、もともと紀久子をにくからず思っていたようで、一緒に過ごすことが多くなり、事実上の結婚状態になったという。ところが、元夫との離婚がなかなか成立しないなか、12年1月に政隆が生まれた。このため親類の間で大問題となった。

 親族会議の結果、政隆は紀久子が身を寄せていた親類宅の四男として生まれたことにし、役所勤めだった弘一の兄が戸籍の手続きをしたといわれる。その直後に弘一がドイツに留学。旅立った翌日の12年9月1日に関東大震災が起き、紀久子は乳飲み子の政隆を抱えて茨城県内の実家で世話になっていた。

 元夫との離婚が成立したのは弘一の留学中だったといい、2人は弘一が帰国した昭和2年の暮れ、12月3日に正式に結婚している。ちなみに紀久子の戸籍上の名は「ふさ」だったが、弘一が紀州・和歌山を選挙区とするところから改名させたとみられている。政隆は翌3年1月31日付で養子の形で世耕に入るという複雑な経緯をたどっている。

 つる子は「父は戸籍上で養子となっているのを気にしていて、事実を知ってほしいという気持ちがあったのですが、できませんでした。当事者が亡くなったいま、お話しすることにしました」と打ち明ける。

 紀久子は、弘一を陰で支え続け、仕事や政治には絶対に口を出さなかった。

 「お父さんは絶対に信念を曲げなかった。私はそれについていくだけだった」

 三男の弘昭(後に近大理事長)に紀久子はこう語っている。

 そんな弘一も7年、衆議院議員に初当選して有頂天になって花柳界で遊蕩(ゆうとう)に溺れたことがある。そのとき紀久子がタンスの奥から、肩の部分の切れた苦学生時代の仕事着を出して見せると弘一は黙り込み、仕事に打ち込むようになったという。

 紀久子宛てに弘一が出張先から送った手紙が残されている。

 〈仕事をすませて宿にかえつても お前がいなくてはさびしい 「望郷」わがつまは、いまごろは…〉

 弘一の死後、政隆の長男、弘武がなぜか子供心に「おばあちゃんはもう結婚しないんですか」と聞いたことがある。すると紀久子はこう答えた。

 「こんなこと、もう二度といやだよ」(松岡達郎)=敬称略

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