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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第3部】(10)「自らの力で出てくる者だけがものになる」何も言い残さず72歳の死

旅館で新聞に目を通す世耕弘一氏=昭和35年2月、和歌山県新宮市(近畿大学提供)
旅館で新聞に目を通す世耕弘一氏=昭和35年2月、和歌山県新宮市(近畿大学提供)
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 近畿大学の創設者で総長の世耕弘一は晩年まで、精力的に働いた。

 「先ごろ大阪大学の医学部で20日間ほど入院して徹底的に検診したところ、院長先生がニコニコ笑いながらきて、世耕さん、あんたは全体の総合点数がちょうど45歳ぐらいの体力ですから、まだ大いに働けますよと言われた。(中略)これからももうひと働きするつもりです」

 昭和38年12月、藍綬褒章受章の祝賀パーティーで、70歳を迎えた弘一はなお意気軒高に挨拶した。

 この年には「南米にも、南洋にも、アメリカにも、カナダにも近畿大学を建設しよう」と語り、実際、ブラジルやアルゼンチンに大学用地をめぐる調査のため幹部職員を派遣している。全国屈指の総合大学としての体制を整備した次の視線は世界に向かっていた。

 そんな弘一が倒れたのは40年2月下旬のことだ。

 同居の長男、政隆の回想によると大阪行きの前夜、東京都豊島区の自宅で就寝中に血を吐いた。布団も畳も一面におびただしく血を飛沫(ひまつ)するほどの大吐血だった。応急処置で一命をとりとめ、病院に運ばれた。

 開腹手術で確認したところ、肝硬変による食道静脈瘤(りゅう)の破裂が原因で大吐血したと診断された。この病気は不意に再び大吐血に襲われ、そのときは救いようがないと医師に告げられた。

 「正月を過ぎたくらいに仕事が手につかなくなり、元気がなくなっていきました。2月ごろ、足がむくんで靴が小さい。はくとき苦しいと言っていました」

 政隆の長女、森元つる子は祖父である弘一の変調を感じ取っていた。

 術後、一時だけ小康状態となった。そして弘一は再起への強い意欲を示し始めた。次の衆議院議員選挙には戸板に乗ってでも立候補すると言い出した。

 ところが、「その日」はやってきた。政隆が病室の一角で仕事を続けていると、突然、弘一が「痛い」と顔をしかめ、やがて黒い血を吐いた。次第に意識が混濁して医者や看護師による輸血や酸素吸入などの処置が絶え間なく続けられたが、今度は蘇生することはなかった。

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