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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝・第3部】(4)八方手を尽くして「新制近畿大学」を創設…学部など増設し総合大学へ

新制近畿大学のキャンパス。看板の校名は世耕弘一氏が自ら書いた=昭和24年ごろ(近大提供)
新制近畿大学のキャンパス。看板の校名は世耕弘一氏が自ら書いた=昭和24年ごろ(近大提供)
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 「大専騒動」を収束させ大阪専門学校の校長となった世耕弘一は戦後、空襲で焼失した教室や講堂などの再建と整備の陣頭指揮を執り、資金が不足すると、個人名義の借金でまかなったといわれている。

 校舎の再建が一段落すると、日本の教育制度の抜本的改革が急速に進められるなか、大専と大阪理工科大学は、新制大学への移行という課題に直面した。昭和23年に理事長に就任した弘一は、新制大学の創設を計画したが、資金が欠乏していたうえ、学内には「時期尚早」とする慎重派が少なくなく、促進派との紛争が起きた。

 元近畿大学建学史料室長の當仲將宏(とうなか・まさひろ)は「半ば自動的に新制大学に移行したと思われていますが、大変な苦労と努力がなければ、実現できなかったことでした」と説明する。

 新制大学申請の際には、慎重派の一部教員の妨害で教員組織の編成が遅れる事態となった。21年の衆議院議員選挙に当選して政界に復帰していた弘一は国会で多忙を極めるなか、慎重派を説得する一方で、資金調達や教員集めなどの準備に八方手を尽くして奔走。ようやく文部省への申請にこぎつけた。

 こうして24年、大専などを運営する財団法人を近畿大学と改組。新学制によって大専と大阪理工科大学を合併し、新制近畿大学が認可された。弘一は、初代総長に就任した。

 この際に、前身校の建学の趣旨を改廃して「実学教育」と「人格の陶冶(とうや)」を新たに制定。「学びたい者には学ばせる。開かれた大学や大衆のための大学」をスローガンに総合大学を目指すことになった。

 當仲が弘一のおいで秘書の世耕忠から聞いた話によると、弘一は大学創設にあたって大学名を「大阪大学」にしたいと考え、文部省と交渉していたという。大専と大阪理工科大学を統合した大学になるため「大阪」にこだわったが、大阪帝国大学を新制の大阪大学にする予定だとする文部省の認可が下りず、やむなく断念。結局、大阪や関西と並び、大学の所在地を意味している「近畿」を冠することに落ち着き、新制近畿大学の誕生となった。

 その後、近大は学部・学科を次々と増設し、附属学校を拡充。幼稚園から大学院までの一貫教育ができる環境を整備し、働きながら学べる通信教育部を設置し、実学教育の実践の場として水産研究所や農場などの附属施設を新設していった。いまや国内の私大として唯一医学部や薬学部、農学部をそろえ、14学部48学科を擁する総合大学となっている。

 當仲は「大正14年創設の大専からの歴史を考えると大専騒動の収束のため昭和19年から運営を取り仕切るようになった世耕弘一総長を創立者というのは少し違和感があるかもしれません」と前置きした上で強調する。

 「前身の大専を廃校の危機から救って再建し、まったく新しい大学として建学して初代総長として発展させてきたことが創設者たるゆえんです」(松岡達郎)=敬称略

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