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「令和」由来の宴に謎? 大伴旅人が詠んだ花は、はかない「落梅」だった

行基への対応で対立

 長屋王の変は、現代の閣僚にあたる議政官(左右大臣、大中納言、参議)筆頭の左大臣・長屋王が「ひそかに国家を傾けようとしている」という密告を受け、妻子とともに自死に追い込まれた重大事変だ。

 続日本紀に密告は「誣告(ぶこく、虚偽告訴)」だったと記され、聖武天皇の夫人・藤原光明子(こうみょうし)の立后を図る藤原氏の陰謀だったとする考えが定説になっている。

 尾田さんは、奈良時代に灌漑池などの土木事業を進めた僧・行基(ぎょうき)と朝廷の関わりを論じた『行基と長屋王の時代』を平成29年に発刊。長屋王政権と藤原氏の対立関係についても踏み込んで記している。

 晩年の天平17(745)年には僧の最高位・大僧正に任命された行基だが、50歳だった養老元(717)年には、僧尼令に背いて寺院の外で民衆教化をしたとして、議政官筆頭、藤原不比等の逆鱗に触れた。朝廷の詔で「小僧行基」という蔑称で非難されたという。

 しかし、尾田さんによると、養老4(720)年に不比等が没し、長屋王が議政官筆頭に就くと状況は一変。翌年頃、行基は平城京の一等地に菅原寺(喜光寺)の建立が許される。

 「行基と長屋王は早い時期から協力関係を築き、養老2(718)年に同時に議政官となった長屋王と旅人は、ともに政策を練り上げたと考えられます」

 こうした長屋王政権の施策を敵視したのが、当時は旅人と同じ中納言の地位にいた不比等の長男・武智麻呂(むちまろ)だと尾田さんは指摘する。

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